城下町 中津

 

我が故郷 大分県中津市。
耶馬溪の入り口に位置し、山国川で福岡県に接する。
鉄道唱歌で豊前中津は繁華な地と歌われた賑やかな町であった。
明治20年頃の人口は大分市 小倉市(現在の北九州市)とほぼ同じであった。
最近は鉄道の高架、大型店の進出で江戸時代からの商店街は寂しい限りである。
しかしダイハツ九州の進出で町に活気が戻ってきました。
ただ発展しているのは昔の郊外部分です。
上記画像は八面山です、昔は旧市内いたるところからよく見えました。
帰省して この山を見るとなにかほっとする気持ちになります。
旧城下町は南部小学校 北部小学校2つの校区にほぼ等しく、江戸時代初期からの町名が沢山残っています。
なお南部校区の小祝地区は江戸時代末期近くまで小倉藩領だったそうだ。
幕末に中津藩領になり、その後中津県(明治4年4月) 小倉県(明治4年7月)への変遷をへて、大分県(明治9年8月)になった時に取り残され、
大分県に移管されたのは明治29年4月(20年ぶり)。
元々現福岡県吉富町の小祝地区と地続きだった、江戸時代 山国川の氾濫で分断された。
現在の本流は当時は支流で、小祝と中津の間の中津川の方が本流だった。
明治22年7月の台風で北門付近が埋まり、現在のような形になった。
旧吉富製薬(福岡県吉富町 最近の名前は三菱?)の住所も小祝。
また北部校区には旧大江村が含まれる。
旧城下町部分は地図で中津町と表示された部分です。
なお福岡県の吉富町 上毛町は藩政時代は殆ど中津藩領で、 境界は福岡県の佐井川で そこまでは中津藩領だった。
吉富町の天仲寺山には小笠原時代の中津藩の藩主の墓所もある、なおこの山は幕末の剣豪 島田虎之助の修行の地と言われる。
その為 現在でも県境を越えて交流がさかん。

江戸時代 中津城下町は土塁と堀で囲まれた城郭都市でした。
小倉口 広津口(渡守口) 金谷口 島田口 蛎瀬口 大塚口があり、各入り口には番所を設け、番士2人 下士2人 鉄砲足軽2人の計6人で監視したそうです(中津市史による)。
土塁は「お囲い」「お囲い山」と呼ばれ、明治時代になって ほとんど破壊されましたが、現在でも遺構が残っています。
これは九州では中津だけだそうです。
この土塁 お囲い山もご覧ください、大分県や中津市の文化財に指定されています。

城下町部分は400年前の計画都市で、小さな町ごとに排水用の溝で囲まれています。
一つの町は数軒から100軒程度の小規模な町割りです。
市の行政上は旧城下町部分には町名は存在しないことになっています、すべて番地で管理されています。
ただし郵便物など実際の生活には町名は厳然として利用されています。
なお土地台帳などは、町名を書かないと公文書として受け付けてくれないという不思議な事実もあります。
どうもこれは管理元(登記は法務局扱い  国では町名が厳然と存在する)が異なることによるものと思います。

城下町部分の観光は中津駅で自転車を借りて散策すると便利です。
(無料・レンタル自転車:JR中津駅構内の観光案内所 0979-23-4511 に問い合わせ)
ただ歩いてもほとんどの場所(中津城 福沢旧居 金谷武家屋敷 寺町など)に駅から15分以内で行けます。


車の場合福岡県・大分県道108号線(昭和35年ころまでの国道10号線です)を利用すると便利です。
大分 別府 宇佐方向の場合中津市合馬の国道213号交点から県道108号線へ。
福岡県からの場合、福岡県築上郡吉富町直江の県道113号交点から福岡県道108号線へ、
耶馬溪 日田方面からの場合、212号線を中津駅直前の大分銀行中津支店前を左折、次の交差点を右折すると福岡銀行中津支店前に出ます。
福岡銀行にも駐車場があります。
ここで交差する道路が県道108号線(昭和35年ころまではこれが国道10号線)です。
城下町はこの道路からどこへでも行けます。

中津城 福沢旧居とも駐車場は十分あります。
特に中津城の場合、本丸下段が無料駐車場になっているので 便利です。
ただ金谷の武家屋敷 (赤壁)合元寺 自性寺 諸町 豊後町の昔の街並み地区は駐車場がありません。
中津城公園に駐車して 徒歩で見て回るとよいでしょう。
なお中津城近く(蓬莱園裏側)や京町 新博多町には小幡記念中津図書館などの無料駐車場が数か所あります。
中津城の入り口には蓬莱園があり、喫茶室があります(火 水曜日休み)。
このホームページは中津在住の黒瀬戦一と東京在住の内尾悟が共同で制作しています。
追加ご希望があれば城下町中津の掲示板に書き込んでください。

小野 維平・中津の歴史と観光

黒田官兵衛 ガイドブック (中津市教育委員会文化財課 発行)

中津の歴史は地図をクリックしてください。


中津市の古い地図(大正)


ここに書かれている町名は行政上は通称扱いです。

お囲い山(城下町中津を取り囲んだ土塁)

黒瀬さん宅の桜 お囲い山 (2019年4月2日撮影)



中津城の桜



天仲寺山(公園)

隣町の吉富町にある天仲寺山(公園)の写真です、桜が見事でした。
画像をクリックしてください。


平成29年中津祇園

平成27年中津祇園

平成24年中津祇園



平成23年中津祇園
平成22年中津祇園 動画
平成22年中津祇園
平成21年中津祇園

平成20年中津祇園
平成18年 中津祇園
平成17年 中津祇園

ご意見ご希望は城下町中津の掲示板にどうぞ

中津市の観光案内は中津市のホームページもご覧ください
伝統芸能動画館

中津城 攻略マップ 城下町・観光案内図

中津市の祭り・名物
平成22年中津祇園 
(事前情報)
平成21年中津祇園
平成20年中津祇園 動画あり

中津祇園 平成18年 (京町 古魚町 公園地 福沢通り)
中津祇園 平成17年
中津祇園 (平成14年)
古要神社 古要舞いと神相撲
北原人形芝居(平成17年2月6日)
鎌倉時代から続く人形芝居です。
約700年の歴史を持つ中津市北原の県指定無形民俗文化財の万年願「北原(きたばる)人形芝居」が2月6日、原田神社であった。

城下町中津の雛祭り (平成24年パンフレット追加)
鶴市神社 花傘鉾祭り(平成17年8月)
雲八幡 かっぱ祭り 初詣

第1回 中津お城石垣まつり
中津 寺町とうろう祭
三光 コスモス園 2008 2009 2011  
中津市山国町かかしワールド

2009年 元祖 泥田バレー大会(中津市三光)
南部自由市場 
豊前の国 豊後街道 楽市・楽座
中津 花市と骨董市
中津城観月祭2009 
お土産
中津から揚げ

中津市の街並み
中津の街並み
空から見た中津市街 吉富町
中津の古い写真(撮影場所が特定できました)
城下町中津の町名のいわれ
中津市の状況 (平成17年)
大分県下 商家案内記・[旧扇城 公園地の景](明治19年発行)
耶馬溪の絵葉書相当古いものです、時代をご存知の方教えてください。
絵葉書で見る古い中津の写真(お願い 古い写真提供ください)
中津高等小学校 中津北高 中津商業の校舎
中津城発掘現場
中津城

蓬莱園
(蓬莱観跡)
黒瀬さんの写真から(中津城工事)
中津城下町とお囲い山
中津城下町 小倉口と小倉橋 (小犬丸の渡し  広津の渡し)
中津城下町 金谷口と金谷武家屋敷跡
中津城下町 島田口
中津城下町 蛎瀬口 大塚口 一番橋 二番橋 三番橋
諸町遺跡発掘

シアーズ(旧寿屋)食品館解体(戦前の映画館 大師館跡)
中津信用金庫旧本店解体・発掘調査 子育て所帯向け市営住宅
姫路町(北門橋)遺構調査→公園化工事→2の丸公園 
沖代平野の条里制  
下毛郡正倉(長者遺跡)

山国橋(国道橋)
金谷の土手・水天宮
廣池 千九郎の生家跡と高瀬の辻の道標
福沢諭吉旧居
中津城 裁判所側石垣工事(平成21年)
耶馬渓の紅葉(2009〜2010)
猿飛甌穴群・魔林峡

学校 公共施設など
中津市立 南部小学校
中津市立城南(城北)中学
中津市学校(慶応義塾関連校 「学問のすすめ」はこの学校の為に作られた)
中津南高等学校(旧中津中学 旧中津一高 旧中津西高)
中津北高等学校(旧中津高女 旧中津一高 旧中津西高)
扇城高校(現東九州龍谷高校)
中津歴史民俗資料館

大江医家資料館
中津市立小幡記念図書館

神社 お寺
宇佐八幡宮
(宇佐市)  勅使祭と呉橋 節分
中津城下町のお寺
(城下町内のお寺をほぼすべて追加)
城井(きい)神社・扇城神社
大江八幡宮

闇無浜神社
宝蓮坊 (中津市寺町)
羅漢寺(中津市本耶馬溪町)
深泉寺(三光 深水)山神宮 大山祇神社 深泉寺は枝垂桜が奇麗です。

瑞泉寺
赤壁 (合元寺)
自性寺(藩主奥平家の菩提寺 池大雅の画でも有名)
桧原マツ(檜原山正平寺の行事)

その他
耶馬溪線写真集 (麻川 尚良氏撮影 原本の頒布もしています、1,000円+送料)
平成17年耶馬溪旅行
中津和傘 和傘工房(朱夏) サラリーマン卒業生が始めた郷土の伝統技術復活。
平成15〜16年の行事
中津藩 大阪蔵屋敷跡 (福沢諭吉生誕地)
東京品川 清光院 中津藩 奥平家墓地
中津カトリック教会

キリスト教団中津教会

浜松市中区三組町 奥平信昌邸跡 (現 秋葉神社)
新魚町神輿 (旧祇園車)

第370回 中津市郷土史講座 守実〜日田 中津(日田)街道
中津近郊中世城館

中津市 近郊

宇佐神宮 勅使祭と呉橋
豊後高田市
杵築
九重・夢大吊橋
九重 飯田高原
九重町 筌の口温泉
九重山蛇越展望所
くじゅう花公園

玖珠町 竜門の滝
湯布院金鱗湖
宇佐市四日市 桜岡天満宮 秋祭り
四日市・東西本願寺別院
宇佐市長洲祇園
豊前市 八屋祇園
豊前市 宇島祇園
豊後高田ホーランエンヤ
宇佐八幡宮 節分(2009)
宇佐市安心院町 鏝絵通り
福岡県吉富町宇賀神社
玖珠町三日月の滝温泉
大谷渓谷と 岳切渓谷
宇佐市和間神社 麻生神楽公演
宇佐市院内余温泉と逸見邸
宇佐市院内町・石橋と安心院町・ワイン祭り
双葉山誕生の地
大分県民体育大会2010(中津市 カヌー競技)
居酒屋 あぜみち(豊前市)


中津市 高等学校・関東合同・同窓会 2007年10月6日
九大 箱崎 六本松 新校舎(伊都キャンパス)

中津市 関連リンク集

大分空港 連絡バス時間表


三光 コスモス園2012 小雨が降っていました、八面山に雲が・・。10月27日撮影。



特急 富士 (ブルー・トレイン 富士)

中津城天守閣遠景 手前は中津市立南部小学校。

中津市立南部小学校 と中津城
実家の屋上から撮影したものです。

中津市立南部小学校 生田門
中津市立南部小学校 生田門


復元された南部小学校正門(生田門 しょうだもん)
自分が入学した昭和19年は南部国民学校だった。
元々は中津藩 家老の生田家の武家屋敷門。
今回は西側に移設されたが、元々は敷地の北側中央にあった。
(下の白黒写真をご覧ください)
福沢 諭吉が「学問のすすめ」でといた中津市学校の正門としても使われた。
中津市学校は西日本一の英語学校(慶応義塾の姉妹校)だったそうだ。
なお下毛郡史によれば、中津中学(現中津南高)の創立(明治26年9月)はこの市学校の跡で行われた。
当時は私立中学。

生田門については南部小学校のホームページをご覧ください。

尋ね人
昭和20年南部国民学校(2年)に在学していた川北さんを捜しています。
消息をご存知の方 管理人までご連絡ください。

南部小学校についての詳細はこちらにも

中津市立南部小学校 生田門
昭和38年撮影の生田門。

その後一時ではあるが、道路のこちら側(錬心館の入り口)に引っ越した事がある。


地図情報

昭和35年 中津市三ノ丁 南部小学校前 

中津市立南部小学校 昭和35年
昭和35年の南部小学校生田門付近。
右側中津市中央公民館と書かれているところは元中津警察署。
この通りは江戸時代の中津城内 大手門内部。
左側(南部小)の石垣が大手門石垣の一部。
(2の丸は二ノ丁 3の丸は三ノ丁)

なお手前 左側に校舎があるが、これは20年代後半か30年代の建築。
自分が小学生の頃はこの部分は平屋の小使室と宿直室があっただけで、運動場だった。
宿直室で木山先生が鉱石ラジオの作り方講習会を夏休みに開いたのが、
自分のラジオ作りの原点。
大勢の同級生も参加したが、現在まで続けているのは自分だけか?。



昭和22年の大手門石垣。
上の写真の反対側(校庭側)で記念撮影。
後ろの建物は当時の中津警察署。
戦後とは言え 迷彩塗装が痛々しい。
江戸時代の南部小学校の位置

江戸時代の南部小学校の位置。
家老 生田四郎兵衛邸と隣の奥平図書邸の1部、それに城壁と堀の部分を含む。
校庭の下側に城壁と堀が描かれているが、
自分が通学していた当時 城壁の中央部分が少し、小山状に残っていた。
(少なくとも昭和25年までは存在、29年には無かった)


薄紫色の部分は創立時の城南中学の敷地。

平成16年の三ノ丁 中津市立南部小学校

中津市立南部小学校
生田門は西側に移転され、昔の運動場の位置に校舎が増築されている。

楠が運動場の中央にあり、運動会はとても出来ず、公園地で実施した。
昔の運動場の位置に校舎を建てた。

昔の校舎はほぼ敷地の中央にあり、真ん中が職員室 2階が講堂、両翼に2階建ての教室と言う配置。
講堂の後ろ側から、西側に築山があった。
これは昔の城壁の残骸と思われる。

なを写真の左側の石垣は上の地図の大手門の石垣に相当します。
写真の横断歩道付近 右側に大手門があったようだ。

ついに解体修理が始まりました。
平成16年11月11日。
工事は年内に終了したようです。
結果はこちらをご覧ください。


中津市立南部小学校

中津市立南部小学校
昔は校庭の中央に聳え立っていた楠。
校舎の建替えでいつのまにか端っこになってしまった。
戦後すぐは現校庭の中央付近に校舎があつた。
校庭南側から写す。
カメラの位置は戦時中の南部幼稚園の運動場に相当か?。

自分が入学した頃 画面左のあたりに築山があった。
これは昔の扇城の城壁の残骸と思われる。
当然この位置からは楠は見えなかった。

したがって校庭では運動会が出来ず、公園地(中津公園)で行なった。
入学時 築山には藪椿が咲いていたが、今でも忘れられない。
この築山は南部幼稚園の写真をご覧ください。

入学は中津市立南部国民学校で、卒業時は中津市立南部小学校。
一学年4組あり、200名。

中津市立南部小学校 校舎 
明治末期〜大正初期の南部小学校。
昭和20年代末ころまで使われた。
自分が在学した頃は、玄関部分に南部10年連続優勝の石碑があった。
楠が右側に見える、校舎の位置は現在校庭になっている。
現在の校舎は写真右側の位置に建てられている。
中央部分2階は講堂、1階は玄関と職員室。
南部小学校の卒業写真はこの校庭部分で撮影。

拡大写真は中津絵葉書をご覧ください。


昭和25年の卒業写真、男子のみ。
南部小学校のシンボル「楠の下での記念撮影」。
したがってこの2倍の生徒が1学年にいたということ。
当時の生田門を入った付近から撮影。

後ろの校舎は取り払われて無い、現在は校庭。
この写真の後方が現在の生田門の方向に相当する。
(個人情報保護のため画像解像度は極端に落としてあります)

撮影場所には校舎が出来たので、厳密には同じ場所 方向では無い。
恐らく教室の中ほどがカメラの位置に相当すると思われる。

中津市立南部幼稚園
昭和20年前後の南部幼稚園の写真。
左の建物が南部幼稚園、右側が南部小学校(一階が職員室 2階が講堂)
背景の小山は中津城の石垣(城壁)の一部。
左側は掘を埋め立てた土地、右側が城内(生田家老屋敷)になる。

この講堂は当時の生田門正面にあったので、学校の敷地のほぼ中央と思われる。
(個人情報保護のため画像解像度は極端に落としてあります)

この写真は黒瀬さんの弟さんの友人の永吉勝美さんからいただいた物で、撮影時期は厳密には不明です。
自分の物は紛失して行方不明ですが、ほぼ同じ構図の物を持っていた記憶があります。
当時は複数年保育(卒園写真は2枚ある)も可でした、若しかしたら自分が写っているかも?。

追記
中津祇園に帰省し実家を探したら全く同じものが見つかりました。
幼稚園時代のものが2枚あり、こちらでは2列目左端にいるらしい?のに対し、もう1枚は最後列に立っています、
こちらの写真の方が古そうです(1年目の終了時 昭和18年3月頃か)。
当時の南部幼稚園は希望により2年間通えました、1年間の方が多かったと思います。
クラス編成は混合で、1年年長の子供と同じでした。長峰(れい子)さんが同じ組で、良く遊んでくれましたが、
南部国民学校入学後は学年が違うので、お付き合いはありませんが、
今どうしているのでしょう(向野先輩の話によると関東地区にお住まいで、お元気とのこと)。


上記の写真の撮影場所とほぼ同じと思われる位置から。
右端に生田門が見える。
築山(元の城壁)は跡形も無い。

南部小学校運動会

中津市立南部小学校 昭和32年運動会
昭和32年10月7日 中津市立南部小学校運動会。
妹が在学していた時代です。
最近は人数が少ないそうだが、この当時は多かった。

恐らく一学年200名を軽く越したでしょう。
手前の生徒の位置は自分が在園した頃の南部幼稚園の園舎の位置と思われます。

中津市立南部小学校
平成15年9月28日 中津市立南部小運動会。
黒瀬君から頂いたもの。

平成18年10月3日の運動会の様子。



中津市立南部小学校 二宮金次郎像入学した頃はコンクリートで無かったような気がするが、
二宮尊徳像。

やはりこれも銅像だったそうです。
戦時中に生田門脇の水のみ場の金具などと共に供出されたようだ。

中津市立南部小学校
左前方の木造3階建ては旧竹内旅館。

左側歩道は溝の上に蓋をしたもの、
ここから校庭側に堀があったものと思われる。
南部幼稚園の入り口は桜の木付近にあった。
溝には蓋がなかった、カニが沢山いた。
この通りは片端町と言われるように、家は片側にしかなかった。
写真左側が堀、右側が武家屋敷。

南部小学校の敷地は、中津市学校閉校の明治16年から、
南部小学校が明治末に新築されるまでの期間の使途が判りません。
ただ記録では旧中津中学(現中津南高)の創立時(私立)の校舎もこの場所だった、その他については不明。
情報をお持ちの方ご教授ください。

中津城


2009年5月12日 9:24 撮影

中津城
中津城天守閣

昭和39年に建設。
元々この位置に天守閣があったわけでは無いらしい。

中津城 薬研堀
昭和33年の薬研堀。
天守閣建築前の写真。


江戸時代にはこの位置にこのような建物があったらしい。


平成20年4月4日撮影。

中津城 
桜の中津城


中津城

雪の中津城
平成16年1月22日撮影。
黒瀬君から送ってもらいました。
天守閣が再建される前に就職して上京したので、
実は雪の天守閣を見たことはありません。
帰省するのは春とか夏ですから。



中津城 公園地
桜の中津城
平成16年4月6日撮影。
黒瀬君から送ってもらいました。
東京は数日前に満開ですから、少し遅いのでしょうか。
中津城


この縦方向の道路は江戸時代には無かった。
鳥居の位置に本丸の城壁があり、その手前は内堀。
写真右側は南部小学校。
撮影場所は江戸時代の奥平図書邸跡に相当。
江戸時代の地図参照。

明治初期にはこの交差点の位置に鳥居があったようです。


中津城

北側から見た中津城。

中津城

桜の二の丸公園(旧中津高女、中津北高跡)
現在の中津北高は中津南高より、さらに南に移転してしまった。

中津南高  中津北高
戦後中津高女と中津中学は合併し中津一高となり、その後中津西高と校名変更した。
旧高女は北校舎 旧中学は南校舎と呼ばれた。
これは位置関係による。
当然入試も一緒だった。

昭和28年中津南と中津北に独立して入試。
丁度自分が中津南に入学した年である。
旧中学に男子が、旧高女に女子が偏ったので翌年からまた一緒に入試をして、抽選で分配した。
10年以上一緒に入試を行ったが、最近は独立して行っている。
旧中津西高の校歌は中津南高が、校章は中津北高が受け継いだ。
北高の校章に色濃く中津中学の校章の面影が残っているのはその為です。
(個人的には校歌には興味が無かったので、校章の方が良いと思ったが)
弟が入学した後、すぐ場所を移転していたので、この地で最後まで学んだのは母だけである。
最近は人数も少ないので、もう一度合併したら良いのでは。

旧 中津中学  中津南高
焼失直前の中津南高(昭和36年3月)
ただし焼失したのは北側だけだった。
(写真は南側校舎)

旧 中津高女 中津北高
移転前の中津北高(昭和33年)

大正3年頃と思われる新築時の写真は絵葉書で見る古い中津」をご覧ください。

中津市 独立自尊の碑
中津城内 三斎池の隣にある
独立自尊の碑。
左側が三斎池で中津御水道の水が引かれていたとの事。
ちなみに現在は水道水。
1620年に開通した。
九州では最初の近代水道と思われる。
(平成13年4月撮影)


明治時代の公園地の景色
独立自尊の碑は元々公園の中央部分に建設され、
昭和7年にこの現在地に移設されました。

この位置の古い写真は中津絵葉書のページをご覧ください。



上京した頃中津近郊出身の歯医者さんが多いので不思議に思っていた。
どうも歯科医師免許1号は中津出身の小幡英之助で、
彼の縁で上京した人が多く、そのまた縁で、
中津出身者が歯科医師になることが多かったのかもしれない。
中津城内の小幡英之助の記念碑。
この地は自分が通学していた頃 創立間もない
中津市立城南中学があった場所でもある。
現在は城の北側に移転してしまった。

中津市立城南中学 旧校舎

中津市立城南中学校昭和35年頃の城南中学跡。
まさに城の南にあった。
(でも厳密には城内と思う)
ただしこの頃はすでに移転した後で、校舎の1部のみ残っている。
手前にも昔の石垣を壊した跡に校舎があった。
ほぼ同じ方向を撮影したのが、下記の天皇陛下巡幸時の写真です。
平成14年復元の為、現場調査中。
中津市立城南中学のホームページもご覧ください。

中津市立城南中学は4月1日で城北中学に校名変更されました。

現在石垣の復元工事が行われています。
ほぼ60年ぶりに元の姿になるでしょう。
なお写真の校舎は城南中学になる前は「中津青年学校」でした。
広場は中津公園(中津城公園)です。

地図情報

向野 一先輩からから城南中学についてメールをいただきました。
城南中学創立時のエピソードです、下記に転載させていただきます。
向野さんは、自分が子供の頃にラジオに興味を持たせてくれたこの道の大先輩の一人です(2002年12月20日)。

「城南中学(正確には城の中)」とあるのが目にとまりました。確かに、本丸石垣上と内堀上なら城内です。
五中から新しい校名にする時点では、旧青年学校舎と武徳殿のみでしたから、本丸≒城として、その南としました。
それと、母体は何と言っても南部小学校ですから、校章も「中」を乗っけただけです。
当時は、先生方の間で校名について喧々諤々でしたが、旧藩士の名誉?にかけてもと、強引に押し切ったのです。
内尾さんの指摘を見て、一瞬こりゃ「城内中学」の方だったかな、と思ったものです。

なお向野先輩(一回生)の話しでは 最初は中津第五中学と呼ばれていて、1年目の授業は当時の中津西高の校舎に間借りして行い、その後青年学校の校舎に移転した。
移転当時は第二中学(北部小出身者)と同じ校舎を二部授業で共同で使ったそうです。

自分は四回生で昭和25年に入学した時はすでに城南中学でした。
入学時は昭和24年6月 昭和天皇巡幸時の写真の校舎しかありませんでした。
下の写真の左側の校舎は石垣を壊して、建てたものです、卒業までには出来上がりました。
石垣の石は前の堀に捨てました、手伝った記憶が在るので、知らない事とは言え文化財の破壊に手を貸した事になります。
その後 これが問題になり、小祝移転のきっかけになったのだと思います。
現在は城北中学と名称変更し、南部 北部の両小学校の卒業生が通う中学になったのも不思議な縁といえましょう。


中津市立城南中学校卒業当時の校門と校舎それに校長先生。
左側の校舎は上の写真では取り壊されて無い。
卒業写真から。
右側の校舎は上の写真の校舎と同一。

校庭は江戸時代の本丸 内堀、校舎は石垣の位置と思われる。
江戸時代の地図参照。



城下町中津城南(北)中学
中津市立城南中学は平成16年4月1日で城北中学に校名変更されました。
これは通学区域が変更になり南部 北部の両小学校の卒業が進学する事になった為です。
我々が通学した頃は一学年200人以上在籍していたのですが、最近は10分の1くらいに減少していたので仕方ありません。
本当に城の南にあったのは10年未満ですから、4月から名実ともに城北中学になります。
発展を祈ります。

中津南と北も校名と位置が逆なのですが、こちらは変更無しでしょう。
中津市立城南中学校
現在の城南中学。
平成16年5月撮影。
16年4月1日で城北中学に名称変更しました。

地図情報


昭和24年6月 昭和天皇が中津に巡幸に来られた時の写真。
今永さん編集の写真集 「中津」から。
当時は鳥居の左側にも石垣(写真後方)が残っていた。
この部分を破壊して、校舎を増築した。
入学した頃、この石垣を壊して、堀に捨てる手伝いをした記憶があるが、でも定かではない。
鳥居西側(写真では右)の堀を戦後埋めたのは確か。
広場部分は中津公園地(中津城公園)です。

地図情報


創立時の旧城南中学の跡地も発掘調査が進んでいます。
黒田時代の石垣も発掘されたそうです。
黒瀬君からの写真です。
中央青いシートの部分が校庭で左側に校舎がありました。
上の写真とほほ同じ方向、校門前の位置あたりで撮影。


平成16年4月撮影。


中津城石垣修理の模様は画像をクリックしてください。

地図情報


平成20年4月4日撮影。
校舎と校庭は見事城壁と堀に生まれ変わっていました。

修復工事の詳細はこちら


平成16年10月9日(土曜日)に行われた中津城シンポジウムに参加しました。
黒瀬君など同級生と一緒で、有意義で なかなか楽しかったです。
中津城も近世の城で遺構が残っているものでは九州最古と言うことです。
中央 女性職員はなかなか明確な説明で分かり易かった。


中津市歴史民俗資料館

最近まで中津市立小幡記念図書館だった。
建物も資料館にふさわしい、是非見学を。
まっすぐ行くと中津城、右に行くと中津駅。
前の道路は県道108号中津・吉富線 (昭和35年くらいまではここが国道)

中津市 旧 小幡記念図書館
小幡篤次郎が実家と蔵書を寄付して中津に図書館を作った。
小幡記念図書館である。
現在は 元の市役所の位置に移転した。

地図情報


中津市 小幡記念図書館


現 中津市立小幡記念図書館
元の中津市役所と公会堂の位置に移転。
江戸時代は藩校 進脩館が有った位置になる。

明治時代に中津高等小学校の敷地となり、その校舎は現中津北高、
さらに中津商業の夫々の創立時の校舎として使われた。
中津高等小学校の校舎の写真もご覧ください。


地図情報

旧 中津市役所

旧中津市役所と公会堂(手前の建物)。
昭和37年5月撮影。

道路近くの左隅にある小さな石碑は当時の中津市道路基標です。
中津市役所
現在の中津市役所
中津駅のすぐ近くです。
昔、この場所には鐘紡の工場がありましたが、現在の駅南口付近は寂しいところでした。
母の実家がすぐ近くでしたので、子供の頃は毎日のように遊びに行きました。
戦時中に鐘紡の拡張で、母の実家の敷地の一部が接収されました。
近くは田んぼや野原が広がり、小川も流れていて、水遊びが出来ました。
その川は今も市役所の隣を流れています。
勿論蛍もいました。
昭和30年代に区画整理が行われ、昔の面影は全くありません。

この写真は今永さんの写真集「中津」から。

明治23年秋竣工の中津町役場が昭和4年4月中津市役所となった。
(郡役場も市役所として使われた)
三ノ丁にあったという記録からして、創立時の城南中学の敷地と思われる。
江戸時代の地図の薄紫色の敷地のうち御蔵と書かれた部分に相当。
大正10年版の地図も参照ください。

南部小学校の生田門はこの斜め前。

正面の石柱の位置から撮影したのがこの写真
自分の中学生時代にこの石柱が残っていたような記憶もあるが定かではない。

地図情報
中津市 武徳殿 錬心館


市役所が片端町に統合され、その建物跡に武徳殿(錬心館)が昭和16年に出来る。
その建物は創立期の城南中学の講堂や教室として利用した。
建築後60年以上も経っているが、手入れが良いのか素晴らしい。

生田門も解体前 一時この位置に引っ越してきた。

中津の古い地図も参考にしてください。

写真は平成17年7月24日撮影。
上の写真とほぼ同じ位置と想像される。

場所は上と全く同じです。

村上医家史料館


城下町中津 村上医家資料館
江戸時代から続く医院を博物館にしたもの。
昔の医院の内部がよく残されている。
幼児期から小学生時代 さんざんお世話になりました。
見学すると半世紀以上タイムスリップした気持ちになります。
内部の変更はほとんどありません。
裏庭には高野長英が1月ほど隠れ住んだという土蔵があります。
村上医家史料館についてはここにも記載があります。

現在の村上記念病院

旧国道(10号線)、最近拡幅されて奇麗になった。
写真の奥が山国橋
戦後の一時期 国道3号線と呼ばれた時代があります。
隣の福岡県までは数百メートル。
最近では旧・旧 国道といった方がよいのかも。

中津の街並みはこちらもご覧ください 

中津寺町  宝蓮坊

お寺さんがたくさんあります。
写真は大家根改修直前の宝蓮坊(12年)。

城下町中津 宝蓮坊寺町は城下町の外郭に位置します。
寺の裏は外掘り(現在は細い川 下の写真参照)です。

宝蓮坊についてはこちらにも写真があります。
実家の菩提寺です。


地図情報

城下町中津 宝蓮坊
細い川は中津城の外堀跡。
左は宝蓮坊、堀の大部分は埋め立てられて、飲食店街(右側)に変身している。
これらの建物が出来たのは昭和20年代中頃?。

写真左側は江戸時代にはお囲い山があったはずで、当然この橋も道も無かった。

寺町合元寺 

城下町中津 合元寺 赤壁
通称 赤壁と言われる合元寺
正面後方仮屋根は修復工事中の宝蓮坊。
13年4月撮影

最近のこちらをご覧ください。
平成17年2月撮影の写真があります。。
道路も綺麗に整備されました。

金谷武家屋敷跡

城下町中津 金谷 武家屋敷跡
中津藩の武家屋敷は家老クラスの上級士族は城の近くにあり、
下級士族の屋敷地は上の金谷(南側)、下辺(北の海側)に有った。
共に道路幅は二間(3.6m)程度で、狭いです。

下辺の代表的な屋敷は福沢旧居です。

写真は金谷武家屋敷跡。
道路突き当たりは水島公園
神戸高商(現神戸大学)の創設者の水島 銕也の屋敷跡を公園に。

この他郊外には麗澤大学の創立者の広池千九郎の生誕地もある。

地図情報

城下町中津 金谷 武家屋敷跡


下級士族の屋敷があったところで、上級士族の屋敷地 三ノ丁に比べ道は狭い。
道幅は二間(3.6m)程度。

上記場所より、更に水島公園に近づいたところ。
城下町中津 金谷 武家屋敷跡
昔は土の壁だったが、最近は壊れて残ったものが少ない。

福沢通り

中津市 福沢通り戦後比較的早い時期に拡幅された。
強制疎開は悪いこと、先の見通しのなさの結果だが、
唯一の効用は道路が広くなったことか。
戦前の道路は3間(5.4m)道路と思われる(倍以上に拡幅)。
(戦前の道路の入り口は下の古い写真を参照)


なお江戸時代の地図によるとこの部分に道路(古魚町1丁目)は無かったようです。

宇佐屋の辻

宇佐屋の辻 
拡幅された旧国道筋
古魚町(この位置は本当は枝町)から国道橋(山国橋)方向を望む。
戦前は右側に宇佐屋(米穀 肥料商)があった。
戦後「はだか随筆」で有名だった元一橋大学教授の佐藤 弘人さんの実家。
宇佐屋の辻と呼ばれたらしい。
元は大同館という旅館を購入したらしく、物凄く大きな家だった(写真下参照)。
現在は福岡銀行の中津支店。

写真手前の部分は部分は新博多町の通りに比べ微妙に低いです。
現地で見ても分からないくらいですが、子供の頃洪水があり、
車の位置から手前側が水没した記憶があります。

地図情報


参考写真
元 小幡記念図書館館長の今永さん編集の写真集「中津」より
上とほぼ同じ角度で撮影。
大正末期の撮影との事。
中津市になる直前で、写真のすぐ後方は豊田町(本町)になる。
写真中央の右側へ曲がる道路(当時道幅3間くらい)が現在の福沢通り。
中央の大きな家が宇佐屋。
強制疎開の直前、探検に行ったが、迷子になるくらい沢山の部屋があった。
この家屋の部分はほとんど現在福沢通りになっている。
幼児の頃この左側の位置にレンガ作りの豊前銀行(現大分銀行)があった。
写真の右側は終戦直前とほぼ同じと記憶している。
宇佐屋の後方の位置に当時住んでいました。
写真の右側部分は自分が住んでいた家を含め、
終戦直前の強制疎開で家屋がすべて取り壊された。
(この写真の著作権は自分の物ではありません)

写真左側に写っている建物は豊前銀行本店と思われます。
レンガ造りのしゃれた建物でした。
昭和20年の強制疎開で取り壊されました。
なお豊前銀行は大正2年4月発足、昭和18年12月27日大分合同銀行に合併されています。
したがってこの名前は自分の幼児期の時代です。


大分合同新聞の「写真で見る大分県の100年」で60年ぶりに懐かしい姿を発見しました。
入り口にステップがあり、ここで腰掛けて雨宿りした事が記憶にあります。
通り雨で、たまたま片方は土砂降り、片方は雨の無い状態が明確な切れ目をもって移動してゆくのを目にしました。
幼稚園(2年)入園前の遊び場所で、鮮明に記憶がある数少ない場所です。
室内は天井が高く、中央に道路と平行にカウンターがありました。

現在の大分銀行 福沢通り支店の前あたりの位置にカメラを置いて撮影したものと思われます。
(家の2階くらいの高さか)

大分銀行の中津支店の歴史は
明治11年10月に諸町に国立78銀行(中津)ができ、明治21年本店が東京八王子に移転、
その中津支店を明治23年に23国立銀行が買収 中津支店とした。
場所は中津町1478番地(京町)
昭和2年10月大分銀行と23国立銀行が合併、大分合同銀行となる。
大分合同銀行 中津支店となり 場所は変わらず京町。
昭和17年9月 中津銀行が大分合同銀行と合併、10月1日 中津船町支店開設1627番地。
昭和18年12月 豊前銀行が大分合同銀行と合併、中津支店となる(ここで京町から移転)。
写真 左側の屋根と右側の洋風の建物がこの写真からも見える。
場所は中津市1698番地(写真の建物と同じ、この付近は入り組んでいて新博多町と枝町のどちらか微妙)。
昭和20年7月 強制疎開により移転、移転先記憶になし。
戦後の一時期 現在の福岡銀行の位置にあったような記憶あり。
昭和28年1月 大分銀行と改称。
昭和30年5月9日  1696番地に新築移転(枝町)。
昭和55年7月 豊田町2番地10に新築移転。

福沢 諭吉 旧邸

福沢旧居 中津市

福沢 諭吉記念館が隣にある。

一見道路が広いように見えるが、ここは広場で、江戸時代は別の屋敷。
道路幅は、狭く人力車が離合出来るくらい。 道幅二間(3.6m)

福沢 諭吉が幼少期に住んだ住居は左側の草地の部分らしい。
ここも通称中津市留守居町000番地だが、行政的には中津市000番地。


福沢 諭吉は中津藩大阪蔵屋敷で生まれました。
蔵屋敷跡の記念碑の写真もどうぞ。



山国川

山国川上流から見た山国川、左福岡県、右大分県。
右側の岸は、子供の頃、水泳をする人でいっぱいだった。
中津南高は右岸。
昔は山国川はここから市街方向にも流れていたそうだ。
細川藩時代にここに堤防を築いたらしい。
中津町地図を見れば、その痕跡がたどれる。
この写真の右側が中津城の外堀だったので、このあたりを川が流れていたのでしょう。
山国橋

平成20年4月7日撮影。
中津市金谷側から吉富町(福岡県)側を望む。

もっと詳細には山国橋(国道橋)を。

宇佐神宮



中津から20Kmの宇佐八幡。
八幡様の総本社。

宇佐神宮 参道や菱形の池 大分県立歴史博物館(公式ホームページ)の写真は中津市近郊 宇佐神宮に移転しました。

八面山

子供のころ城下町の中心部 新博多町から良く見えた八面山も 最近ではビルの陰で見えなくなってしまった。
天守閣に登れば、何とか見る事が出来る。
最近では帰省しても見えない事が多い。

中津城天守閣からの八面山

中津城天守閣から見た八面山

中津市郊外で

中津市のシンボル 八面山
八面山を望む。
1950年頃までは市街地中心部の新博多町からも良く見えていた。
最近では高い建物で、邪魔されて旧市内からは見え悪い。
この山は三光村(平成17年3月1日で中津市)にあります。

平成22年11月2日撮影。
日本一のコスモスを目指して。
バックは八面山。

八面山

三光 深水 深泉寺

中津市 深水  深泉寺


枝垂桜で有名です。
友人に連れて行ってもらいました。
八面山の近くです。


中津市 三光のホームページもご覧ください。

平成17年3月1日で中津市になりました。

写真は18年4月黒瀬さん撮影のものに入れ替えました。

詳細はこちらをご覧ください。

地図情報


平成20年4月5日撮影。



奇勝 耶馬溪 吉田初三郎絵




青の洞門
青の洞門の桜、なかなか見事です。

平成20年4月5日撮影。
耶馬トピア 

耶馬トピアの枝垂桜とお茶会。
平成20年4月5日撮影。
桜は4分咲き程度で、少し早かった感じはします。

無料で抹茶とお菓子をいただきました、感激。

  平成20年4月5日撮影。

擲筆峰(てきひっほう)

一名「筆投の景」ともいう。頼山陽が景勝を激賞し「筆舌に尽難し」と筆を投げたという、
山陽の賞賛した断崖の枝振りの良い松も枯れてしまった。
昭和30年代に耶馬渓を訪れるとバスガイドが必ず案内した場所です。
古い絵葉書は写真をクリックしてください。

最近は忘れられているが、岩壁と山国川の清流と調和した絶景。
平成20年4月5日撮影。

昔の風景はこちらをご覧ください。

渓石園の桜(耶馬溪ダムの近く 市営 入場無料)


平成20年4月5日撮影。


平成20年4月5日撮影。

後藤又兵衛の墓

平成20年4月5日撮影。

新博多町 レンガ舗装

新博多町 アスファルトレンガ 舗装
江戸時代から繁華な商店街だった新博多町の舗装は戦前のアスファルト レンガの舗装が残っている。
現在は寂しい街だが、明治から大正にかけて、
西の博多か東の中津と言われた時代の中心商店街。
戦時中の強制疎開で、片側(右側)の家が全て取り壊され、戦後完全に復活できないまま取り残された為か、舗装が昔のまま残っている。
この舗装は物心ついたときはあった。
幼児の頃汽車ごっこをした、蝋石で書いた線路の白い線が目に浮かぶ。
今永さん編集の写真集「中津」によると、この舗装は昭和7年竣工。
70年以上使われていたことになる、凄い。

平成17年この舗装は取り除けられた。
 

地図情報

平成17年12月3日
新しい舗装 通称「しゃらの木通り」の完成記念の式典が行われていました。
たまたま帰省した時に撮影。
赤レンガは昭和18年ころ?に壊された元兵庫屋の防火壁。

しかし歴史的なアスファルト舗装を一部でも残して欲しかったですね。
現在住んでいる方でも事実を知らない方が殆どでしょうから仕方ないかも。

空から見た中津

平成13年10月に帰省した時、福岡空港から東京に向う全日空機内で。
まさか中津上空を通過するとは予想していなかったので、慌てて撮影。
上側中央付近が中津市街、旧吉富製薬(現 三菱ウェルファイド)。
中津市上空 航空写真




空から見た中津旧市内と福岡県吉富町。
平成16年10月11日撮影
 ANA258便 福岡→羽田 15時40分頃
中津市上空 航空写真
中央やや左が山国川。
中州に見える部分が小祝。
山国川左側は吉冨町。

国土地理院の航空写真もご覧ください。
なかなか楽しいです。

縮小画像

詳細画像は空から見た中津市街 吉富町にも有ります

最近市町村合併が言われていますが、中津市の両側の市 豊前市 宇佐市まで含めて合併検討をしたら良いと思う。
県境が問題だろうが、築上郡(築城郡 上毛郡) 下毛郡 宇佐郡は元々豊前の国の同じ仲間、
小倉(現北九州市)も同じ豊前国なので、皆で福岡県に引っ越しても良いのでは。
だいたい市内通話(料)が出来る範囲(豊前市など)が県外と言うのはおかしい??。


京町旧国道角

(平成13年10月撮影)
右は旧大江医院。
大江医院など中津の古い建物は日本近代建築館 中津 に写真があります。
なお平成17年2月時点でこの建物は解体されました
なお上記のページで大江医院は建設時代不明となっているが、父の話によると昭和10年代前半の建築らしい。

写真の場所は我が家の貸駐車場で、現在では舗装されています。




大江医院の診療室は解体されました。
上の写真の青いシートの部分。
平成17年2月5日撮影。


新博多町交流センター
(旧三津屋)
(平成13年4月撮影)
新博多町と京町の境界に建つ。
入り口部分は京町側。

写真左端の建物を壊した部分が上の写真(駐車場部分)。

内尾駐車場



新博多町交流センターの前です。
住所は中津市京町1444番地。

看板も貸し出します(2011年1月25日追加)。


我が家の貸し駐車場。
舗装されています、4レーンあります。
現在1レーンが空いています(5,000円/月)、2〜3台駐車可。
ご希望は下記にお願いします。
つかさ不動産(電話0979-22-564か下記管理人へメールください。

メール




城下町中津 上勢溜勢溜(上勢溜)
軍勢を溜める(集合)場所。

昭和30年頃?まで車の位置に井戸があった。
結構大きな井戸だった。
江戸時代の水道(井戸)跡?と思われます。
なおこの一角は江戸時代 建物は無く、広場(勢溜)です。

水道用の石樋は中津歴史民俗資料館に屋外展示されている。
中津の水道の歴史は細川藩時代(元和6年 1620年)に城中に給水、
市街地への給水は小笠原藩時代(承應元年 1652年)に整備されたとの事。
これは九州最初の水道らしい。
ちなみに九州で早いのは佐賀水道が1623年、鹿児島磯集成館水道が1628年。
江戸では神田上水が1590年、玉川上水が1654年。
若しかしたらこの事を皆さん意識していないように思われる。
もう少し宣伝しても良いのでは。
また同じ井戸と思われるものが新博多町旧国道の角にもあった。
これは20年7月の強制疎開時まで使われた。
(水道の歴史は昭和4年発行の「中津町上水道誌」や、「一目でわかる江戸時代」による)

地図情報

 昭和20年まで健在だった井戸の位置
旧国道10号線 現在拡幅されて道路中央。
(正確な位置は不明)


中津祇園

平成14年の祇園の写真が有ります。

中津市歴史民俗資料館 発行の案内図

城下周辺図の内、右中央に川があるが、これより左側が旧城下町。

 

大正7年と10年の中津町地図(現中津市)

城下町部分は殆ど変わっていません。
戦後すぐ魚町 塩町の通りが拡幅されて福沢通りと名づけられ、この通りが戦前の3倍くらいになったのが大きな違いでしょう。
この時 福岡銀行前から市役所方向の道路も新たに作られました。
昭和20年代後半に旧市役所前から旧国道と平行に京町まで道路が作られました。
比較的最近 旧・ 旧国道(歴史民俗資料館の前の道路)が拡幅され綺麗になっています。
また都市計画道路計画が着実に進んでいて、各地の道路が拡幅されつつあります。。

なお中津市には城下町らしい名前の町が沢山残っていますが、
どうも通称名で、行政的には旧城下町部分は正式には中津市だけで、町名は無く、番地だけで区別しているようです。
これが戦後、一時流行した地名(住居表示)変更にあわなかった理由でしょうか。
例えば中津市新博多町1丁目1755番地は正式には中津市1755番地。
平成14年の2月まで、インターネット地図サイトmapionなどは中津市で 新博多町 京町 留守居町など入力出来なかったが、
mapionにお願いしたら、快く対応してくれた、感謝。
なお先日 実家を相続する為に法務局の中津支部に出かけたら、新しいことを発見した。
法務局の土地台帳には京町や新博多町の名前が厳然としてあることがわかりびっくり。
どうも中津市の城下町部分(旧中津町)部分の土地台帳は「中津市大字中津京町XXX番地と記載されているらしい。
少なくとも申請書には 中津市 字京町1444番地と書かないと受け付けてくれない。
そう言えば 昔の本籍地に中津市大字中津XXX番地と記載してあったような気がする。
町名は最後の部分をご覧ください。


中津市 一番地 の碑
中津市の旧城下町部分には正式には番地しか無い。
町名は行政的には通称扱いである(土地台帳には通称名が記載されている)。
この掲示板の処が中津市1番地で、旧城下町は一連番号の番地。
例えば 上の地図の中に記載されている如く正式には、
中津市歴史民俗資料館

〒871−0055  大分県中津市1385番地(殿町)
という表示になる。
ただ土地台帳には「字殿町1385番地」と記載されているはず。
これが住居表示と言う無味乾燥な町名改正にあわなくてすんだ理由でしょう。
町名は江戸時代初期からそのまま使われていたものが多い。
(京町表示板の初期城下町 町屋 14町)
なお地図に掘が書かれているが、これが外堀に相当、左から一番橋 二番橋 三番橋となる、
現在三番橋は埋め立てられて無い。
なお中津市内には不思議な町名も存在する、例えば日の出町(駅前から続く商店街)だが、みんなが日の出町と使っているが、
正式な住所は 法務局では”上小川XX番地”など馴染みのない名前が出てくる。
江戸時代から明治時代にかけて島田口付近に日の出橋が存在したようで、その名前から日の出町となったのでは無いか。
ちなみに大正時代現福岡銀行中津支店付近は旭橋通りとも呼ばれらしい。
これは現在暗渠になっている蛭子川にかかる橋の名前だった。

城下町の町名は江戸初期からそのまま

中津市の旧城下町地区は江戸初期からの町名が連綿と継続しています。
日本の大部分で由緒ある町名が廃止になった中で珍しい事でしょう。
ただ行政的には町名はありません、これが廃止を免れた最大の理由でしょう。
行政的には中津市1444番地のごとく、番地だけです。
住民は中津市京町1444番地のごとく表示します。

中津の町は(幅50cm程度の)溝が町の境界になっているようです。
これは計画的に町を作った、城下町建設時(400年以上前)からの名残と思われます。
昔はぴったり家が建っていたので、溝に気がつかなかったのですが、最近は家が取り壊されて形跡が良く見えるようになりました。
中津の町 そのものは小規模の区画です。

2ノ丁 3ノ丁 片端町 殿町 諸町 新魚町 外馬場 姫路町 京町 新博多町 古博多町 上博多町 江三竹町 出小屋
塩町 舟町 魚町 枝町 寺町 桜町 北門町 新堀町 鷹匠町 仲間町 水主町 餌差町 留守居町 船場 市場
北稲堀 南稲堀 弓町
(蛎瀬町) 豊後町 下小路 出町 北新地 (角木 角木新町) 北堀川 南堀川  
金谷西堀端 金谷東堀端 古金谷 金谷本町 金谷上ノ丁 金谷森ノ丁 金谷山ノ神 金谷南ノ丁

町名の紹介
中津市のホームページから転載したものです、詳細は原文をご覧ください VOL1 VOL2 ← 新中津市誕生のホームページ更新でリンク切れ

 中津市のホームページに中津城下町 町名 木戸口説明が新しく掲載されています。
 城下町の町名、木戸口の説明があります、ご覧ください。

1.二の丁
 中津城の本丸は丸山の地に黒田公によって設置されたもので、巽櫓、乾櫓に囲まれており、本丸内は上段と下段に分かれている。
 上段は藩主の御殿や大奥殿があり、下段は藩政の館や松の御殿、能舞台などがあった。
 また、二の丸は本丸の北側と東側に位置し、御花畑、蓮池、内馬場、観音堂、長福寺などがあった。
 明治3年(1870)の中津城廃城により、この本丸と「二の丸」が、一つになって「二の丁」と呼ばれるようになった。

2.三の丁
 細川公入府と同時に中津城の修築を始めるとともに、本丸の南側に、東は大手門から西は西御門までの土地を開いて三の丸を造った。
以後この三の丸は、城代家老や大身格の上級藩士の屋敷地となった。
明治3年(1870)の中津城廃城により「三の丸」が「三の丁」と呼ばれるようになった。

3.片端町
 中津城下町の武家屋敷町の1町である片端町は、中津城の南側の「中掘り」に面し、東は京町そして西は小倉口に接する、東西約四百米にわたる上級藩士の屋敷町で、
町の北側は「堀」で、上級藩士の屋敷は町の南側だけに並んでいたので、片側だけの町並の町で「片端町」となったと云われている。
なお、慶応年間に、この堀が埋められて現在の町並みになったが、町名はそのままに残っている。

4.殿町
 中津城下町の武家屋敷町の1町である殿町は、中津城の南面に位置し、北側は片端町、南側は諸町の間にあって、
東は新博多町、西は外馬場に接する東西約四百米にわたる上級藩士の屋敷町である。
中津城築城以前、この辺りは「中小路」と呼ばれたことから「中の町」とか、また「侍町」とか云われていたが「大身や供番格」の藩士が住んでいたことから、
自然に「殿町」と呼ばれるようになったと云われている。明治以降藩士の屋敷は商人の手に移り、かっては市街の中心地であった。

5.諸町
 中津城下町の町屋14町の内の1町である諸町は、中津城の南面に位置し、北側は殿町、南側は新魚町の間にあって、
東は上勢溜、西は広津口に接する、東西約四百米の職人の町。
この町の西側三分の一には藩士の屋敷があったが残りは色々な職業の職人が住んでいたので「諸町」の名があると云われている。
この町は昔から鍛冶屋が多く、明治初年頃は鉄工、染物、それに関連する職人が多かった。

6.新魚町
 中津城下町の町屋14町の内の1町である新魚町は、中津城の南面に位置し、北側は諸町、南側は外堀りとの中間にあって、
東は上勢溜、西は自性寺と接する東西約四百米の職人の町(但し町の西側には一部藩士の屋敷があった)。
この新魚町は東は島田口、南は金谷口、西は広津口の三ヶ所の木戸口を持つ町であり、中津城南側の防御の第一線の町と考えられる。
従って他藩者を困惑させる目的で町名が付されたのではないかと思われる。
即ち黒田時代から存在していた「魚町」の対照町名として「新魚町」が「町割り令」によって誕生したのではないかと思われる。

7.京町
 中津城下町の町屋14町の内の1町である京町は、中津城の東面に位置し、西側は中堀りと並び、
東側には新博多町、古博多町、米町と接して、北は姫路町、南は上勢溜に続く、南北約四百米の商人町(一部に藩士の屋敷があった)。
天正15年(1588)黒田入府の折「京町中ノ辻の町屋伊予屋弥右衛門方を本陣とし、同16年1月11日丸山城を着工する」とあるように町名は古くからあったようだ。
「町割り令」で城下町は整備されたが、その時に「ここは京都のように町の中心にしたい」という願いと、また「京都付近からの移住者を象徴して」「京町」と呼ばれるようになったと云われている。
奥平時代には銀札所、町会所、高札所などがあり、大手門に連なる町屋で最重要なところであった。現在の京町1丁目は幕末まで「職人町」と呼ばれていた。

8.姫路町
 中津城下町の町屋14町の内の1町である姫路町は、中津城の東面に位置し、西側は中掘りと並び、東側は米町と接して、
北は北門通り、南は京町に続く、南北約二百米の職人、商人の町。
天正15年(1588)黒田公中津入府の時、「播州より職人や商人が随従してできた町」で「姫路町」と呼ばれ、黒田時代は城下の町屋の中心であった。

9.新博多町
 中津城下町の町屋14町の内の1町である新博多町は、中津城の東面に位置し、西側は京町、東側は古魚町と一部外堀りとの間にあって、
北は古博多町、南は上勢溜に接する、南北約二百米の商人町。
細川時代の「町割り令」によって、博多町の上手にあった「十助堀」を埋め立てて造られた町で「博多町」に対して「新博多町」と呼ばれるようになったと云われている。

10.古博多町
 中津城下町の町屋14町の内の1町である古博多町は、中津城の東面に位置し、西側は京町、東側は古魚町との間にあって、
北は米町、南は新博多町に接する、南北約二百米の商人町。この町は黒田時代に博多の商人が移住し、
店を構えていたので「博多町」と呼ばれていたが、細川時代の「町割り令」で、この町の南側に町やが造られた。
新しい町の名は「新博多町」。従って「博多町」が「古博多町」と呼ばれるようになったと思われる。

11.櫻町
 中津城下町の町屋14町の内の1町である櫻町は、中津城の東面に位置し、西側に舟町、塩町と、東側の寺町の間にあって、明蓮寺より北へ約200米のびる商人の町。
寺町や特に明蓮寺の門前町の要素の強い桜町は、料理屋や茶屋があって「江戸の岡場所」の様相を呈していたのではないかと推測される。
「櫻町」と呼ばれているのはこのためと考えられる。
また、「櫻町」の北の端から新堀町までの約100米を「柳町」と呼んでいた時代があった。

12.鷹匠町
 中津城南北の外堀の郭内に東西に約300米にのびる中津藩下級藩士の組組織町。かつて、「下辺」と云われていた。
この辺りには、中津藩の職制から付けられた町名が多い。
「鷹匠町」も鷹狩りの「鷹匠」役の職名に由来していると思われる。他にこの鷹匠に関連のある町名で「餌指」「鷹部屋」がある。

13.仲間町
 中津城南東にあって、鷹匠町の北側で東西約200米の中津藩下級藩士の組屋敷町。
かつて「下辺」と云われていた。この辺りには中津藩の職制から付けられた町名が多い。「仲間町」中津藩の仲間役からの町名と思われる。

14.豊後町
 中津城下町の町屋14町の内の1町である豊後町は、中津城の東北に位置し、中津城東側の蛎瀬口から西へ約300米にわたってのびる職人や商人の町。
細川時代「豊後の大友義統が配流され家来が浪人となり、中津のこの地に集まって来たので豊後町」と呼ばれた。ことから、とも云われている。
以後、豊後町は新博多町、古博多町に次いで東の中心地となった。




勢溜の写真 中央の案内板の内容。
見難いが赤い文字で現在地と書かれている。
L字型の広場?。

中津御水道
中津の水道は全国的に見ても非常に早い時期に作られています。

城下町中津 お水道
中津歴史民俗資料館に展示されている、水道石樋。
写真 後ろの建物は昔の商工会議所。




城下町中津 お水道
中津歴史民俗資料館に展示してある御水道絵図
勢溜の井戸は下の3つが接近してある内の1つと思われるが詳細不明。

なお実家で昔の勢溜(現在の新博多町)で店をやっていたが、民家に不釣合いな井戸があった。
あるいはこの1つかもしれない。

新しい展示内容

下記は中津市のホームページからの転載です

御水道とは江戸時代、中津城下の上水道のことです。
1600年、中津藩主となった細川忠興は、中津城や城下町の整備を行いました。
そして1621年に中津城内へ給水するために上水道工事を行いました。
それは、中津の城下が海岸に近いため水質が悪く、飲料水に適さなかったためです。
九州では熊本の宇土水道が造られました。
御水道は山国川の三口から万田、高瀬、宮永、島田の水道口まで水路を流れてきます。
勢溜より地下を石樋で流れ、博多町、京町を経て中津城下に給水されました。
1632年新たに中津藩主となった小笠原長次も御水道の整備につとめ、1652年町中に給水できるように工事を行いました。
詳細は中津市のホームページをどうぞ。

水道口までの水路について


耶馬溪線について


昔中津駅に着くと「なかつー なかつー 耶馬溪線のりかえー」と語尾を延ばしたアナウンスがあった。
ああ帰ってきたなという感じがしたが、耶馬溪線はすでに無い。
耶馬溪線をご存知の方は多いと思うが、もう一つの耶馬溪鉄道はあまり知られていない。
大正10年の中津町新地図に路線図が掲載されている、地図はここを参照。
なおこの時点では耶馬溪線も守実ではなくて柿坂が終点になっている。





耶馬溪線写真集ができました。
同級生の麻川 尚良さんが撮影したものです。
画像をクリックしてください。

大正8年の中津町周辺地図(中津市 宇佐市 豊前市)

龍王橋中津市 竜王橋

龍王橋完成。
長い間工事中だった橋が完成した。
平成15年10月16日開通式。
上記「御船寄」の少し海側の位置に架橋。

中津は住みよいところ

ダイハツ車体の移転で、新しく中津市民になった方も多いと思いますが、良いところは。
@魚は美味いし、生活費は安い。
A地震が少ない、関東地区に比べれば格段の相違。
B台風は多いが、被害は意外と少ない。
これは九州山地を縦断して来るため、勢力が弱まるためです。
C雷は関東に比べ少ない。

中津土産
城下町中津 室屋の御膳醤油
今回はこんなものを買ってきました。
長なすと室屋の御膳醤油(刺身用です)。
下は30cm物指。
焼きナスにすると旨いです。
この他 魚の辻 魚九のテンプラ(蒲鉾を油で揚げたようなもの)。
これらは東京では買えないです。



中津のテンプラ
注 中津のテンプラ 普通のテンプラも勿論あります。
中津のテンプラは「笹蒲鉾を3倍くらいの大きさにして、
さつま揚げのように油で揚げたもの」と理解したら良いでしょう。

栗山堂のういろう


住所 大分県中津市京町2-1521

電話 0979-22-0820



巻蒸(けんちん)はお土産としては珍しいでしょう。

甘味本陣
中津市新博多町1768-1
0979-24-2535



このページのアドレス(URL)は長いので、友人に教える時は 「ラジオ工房」をGoogleやYahooで検索し、そちらからリンクをたどって訪問ください。

更新記録
2002年5月12日
2002年6月14日
2002年6月15日
2002年6月17日
2002年8月7日
2002年8月18日
2002年8月22日
2002年9月4日 宇佐屋の辻 中津南 北などの古い写真を追加。
2002年9月17日中津城 南部小などの古い写真などを追加。
2002年10月1日 中津の歴史へのリンク挿入。
2002年10月25日 記述一部追加訂正
2002年12月20日
2003年4月17日リンク修正
2003年9月28日 南部小学校運動会写真を追加。
2003年10月17日龍王橋追加。
2004年1月13日 城南中学から城北中学に。
2004年1月23日 雪の中津城を追加。
2004年4月1日 南部小と城北(旧城南)中学のリンクを変更。
2004年4月6日 桜の中津城、旧城南中学の発掘現場の写真を追加。
2004年6月25日
2004年7月27日
2004年10月12日
2004年11月4日
2004年11月10日
2004年11月11日
2005年1月15日 写真追加のため一部移転しました。
2005年1月26日
2005年1月27〜29日 南部小学校付近の地図を追加。
2005年2月1日
2005年2月7日北原人形芝居を追加。
2005年2月8日 江戸時代の地図など記載事項の追加。
2005年2月13日 本日行われた雛まつりパレードの写真を追加。
2005年2月15日 赤壁寺(合元寺)の新しい写真を追加。
2005年2月19日 写真などを追加すると共に、説明の順序を変更しました。「町名の紹介」を中津市のホームページから一部転載しました。
2005年3月1日
2005年4月10〜11日 中津城の桜、耶馬溪の古い絵葉書を追加。
2005年6月11日 25年の卒業写真(男子のみ)を追加。
2005年6月22日 南部幼稚園 園児の写真と説明を追加。
2005年6月28日 昭和初期(4年頃)の南部尋常小学校の写真(絵葉書)を追加。
2005年7月3日 大正7年版の中津町地図を追加、さらに大正10年発行の中津町地図の差し替え。
2005年7月4日 城下町中津を更新しました。また絵葉書で見る古い中津の写真中津高等小学校?の校舎写真 などを追加。
2005年7月14日 中津町役場の写真などを追加、リンクを修正 追加。
2005年7月18日
2005年7月25日
2005年7月27日
2005年8月5日  昭和22年の写真を追加。
2005年8月18日
2005年8月31日 分室に鶴市神社花傘鉾祭りを追加。
2005年9月2日  リンクなどを追加。
2005年9月5日 大江八幡宮 城井神社を追加。 
2005年9月30日
2005年10月6日 宇佐神宮勅使祭の写真を追加。
2005年10月14日 古要神社 古要舞いと神相撲 を追加。
2005年11月7日
2005年11月27日 耶馬溪に行ってきました
2005年12月3日 新博多町の新舗装と航空写真(17年12月3日撮影)を追加。
2005年12月4日 空から見た中津市街 吉富町を分室に移転。中津市街の拡大写真を掲載しました。
2005年12月21日 石垣の復元とお囲い山 を更新。
2005年12月27日 扇城高校を独立させた
2006年1月5日 中津城下町とお囲い山を追加。
2006年1月28日 中津城下町とお囲い山を更新。
2006年2月13日 中津城下町 金谷武家屋敷跡その1 その2を更新、 島田口」を追加。
2006年4月4日 三光 深泉寺を追加。
2006年5月19日
2006年5月27日 中津カトリック教会 新魚町神輿 を追加。
2006年6月1日  日本キリスト教団中津教会を追加。
2006年8月1日 平成18年中津祇園を追加開始。
2006年8月16日 中津歴史民俗資料館の展示品の写真を多数追加。
2006年8月19日
2006年8月21日 「livedoorによる地図情報」をリンク
2006年8月28日 玖珠町 竜門の滝 を追加。
2006年9月6日 中津祇園に写真を追加。
2006年9月23日 城南中学のページ 宇佐市四日市桜岡天満宮の秋祭りを作成。
2006年10月3日 南部小学校の18年度運動会の写真を追加。
2006年11月13日居酒屋 呑み処 あぜみちを追加。
2006年12月31日 中津の古い地図に昭和24年のものを追加、拡張の為移転しました。
2007年5月7日 宇島祇園 八屋祇園 長洲祇園を追加しました。
2007年8月25日
2007年10月6日中津市 高等学校関東地区合同同窓会
2008年2月3日 浜松市中区三組町 奥平信昌邸跡 を追加。
2008年8月8日 平成20年中津祇園を追加
2009年1月30日 sakura netに移転しました。
2009年1月31日:豊後高田市 ホーランエンヤを追加。
2009年4月13日:50,804 桧原マツ(檜原山正平寺の行事)を追加しました。
2009年5月7日: 51,361 沖代平野の条里制  下毛郡正倉(長者遺跡)
2009年5月8日:宇佐市安心院町 鏝絵通りを追加。 福岡県吉富町宇賀神社を追加。
2009年6月11日;2009年 元祖 泥田バレー大会(中津市三光)を追加。
2009年6月11日:玖珠町三日月の滝温泉を追加。

2009年7月14〜15日:Geoctiesが消去されたので、移転を開始しました。
2009年8月10日:53,778 九大箱崎 六本松の校舎を追加。
2009年8月15日:53,987 寺町とうろう祭 竜門の滝 大谷渓谷と 岳切渓谷の写真を追加。
2009年10月18日:55,877 南部自由市場を追加
2009年10月19日:55,919 豊前中津・楽市楽座を追加。 南部小学校の運動会写真を追加。中津城 城壁修復工事に最近のお堀の様子を追加。
2009年10月20日:宇佐市和間神社 麻生神楽公演を追加。中津城観月祭2009を追加。
2009年10月23日:56,076 中津の古い写真(撮影場所不明です、求む情報)
2009年10月26日:56,159 三光 コスモス園 2008 2008を追加、中津市山国町かかし祭 を追加。
2009年11月8日:56,565 中津信用金庫旧本店解体・発掘調査を更新、城下町中津発掘調査京町地区を追加。
2009年11月8日:姫路町(北門橋)遺構調査を追加。
2009年11月21日:56,956 2009年耶馬渓の紅葉 宇佐市院内余温泉と逸見邸を追加。

2009年11月27日:第370回 中津市郷土史講座 守実〜日田 中津(日田)街道を追加
2009年12月21日:南8会(中津南 8回生)同期会
2010年2月22日:59,010  南部自由市場  北門付近の宅地公園化  雲八幡 かっぱ祭り 初詣  中津城 城壁修復工事 お囲い山を更新しました。
2010年2月28日:59201 中津の古い写真の撮影場所が特定できました、磯田さん父子の絶大な協力のおかげです、有難うございました。
2010年5月19日:61,106 中津 花市と骨董市を追加。 南部自由市場を追加更新 中津城 城壁修復工事 お囲い山を追加更新。
                  廣池 千九郎の生家跡と高瀬の辻の道標を追加。
2010年5月20日:四日市・東西本願寺別院 を追加。
2010年6月28日:61,968 九重・夢大吊橋 九重 飯田高原 を追加、中津城 (城壁修復工事 最新情報) 姫路町(北門橋)遺構調査→公園化工事 を更新。
2010年7月4日:平成22年中津祇園 (事前情報)を追加。
2010年7月19日:62,533 南部自由市場に1周年記念を追加 平成22年中津祇園(傘鉾・祇園車 顔見せ撮影会)を追加。
2010年7月29日:62,777 平成22年中津祇園 動画を追加。

2010年8月6日:大分銀行(豊前銀行)に関する記載追加。
2010年9月15日:64,287 院内町・石橋と安心院・ワイン祭り大分県民体育大会カヌー競技2010を追加。
                  雲八幡かっぱ祭りを更新。 中津 寺町とうろう祭を更新。
2010年9月27日:64,760 南部小学校運動会 四日市 東・西別院 桜岡天満宮秋祭り(祇園車) 中津信金跡地に市営住宅 を更新しました。
2010年10月17日:65,349 九重町 筌の口温泉 湯布院金鱗湖 九重山蛇越展望所 シアーズ(旧壽屋)食品館解体 くじゅう花公園 を追加。
2010年12月6日:66,550 羅漢寺(中津市本耶馬溪町)を追加。
2010年12月7日:66,582 中津近郊中世城館を追加。
2010年12月17日:66,800 内尾駐車場の紹介
2011年3月28日:68,967
2011年4月14日:69,434 雲八幡に画像を追加 猿飛甌穴群・魔林峡を追加。
2011年5月27日:
2011年6月17日:71,470 お囲い山を新発見
2011年7月1日:お囲い山に関する読売新聞の記事を追加。
2011年8月18日:73,579  中津の古い写真を更新
2011年9月3日:
2011年10月1日:表紙に八面山の画像を追加 一部説明文も追加。
2011年10月9日:75,839 「奇勝耶馬溪」を追加。
2011年10月18日:76,459 中津城を更新しました。
2011年10月24日
2011年11月8日:77,738 中津市山国町かかしワールドを更新。
2011年11月12日
2011年11月25日:78,764 中津城 攻略マップ 城下町・観光案内図を追加。
2012年1月21日:81,340 双葉山生誕の家を追加。
2012年1月26日
2012年2月28日:83,429 2012年 雛祭りパンフレット 蓬莱園解説記事 資生堂元社長伊與田光男解説記事 などを追加。
2012年6月19日:89,195 城下町内郭 のお寺を殆ど網羅
2012年8月2日:91,098 中津祇園2012を追加
2012年8月29日:92,113
2012年9月16日:92,784 金谷の土堤にあった水天宮の写真を追加。
2013年12月3日:105,949 小野さんのページを追加(資生堂社長 伊與田 光男の伝記)。
2014年2月20日:108,564 小野 維平・中津の歴史と観光に中里 真清  江藤直純  渡邊 健介を追加。
2014年2月28日:108,896 黒田 官兵衛 ガイドブック (中津市教育委員会文化財課 発行)
2015年4月7日: 天仲寺山(公園)の桜を追加。
2015年7月27日:124,079 平成27年中津祇園を追加
2017年8月8日:134,809 平成29年中津祇園を追加
2019年4月24日:137,690 
2021年2月17日:139,982 リンク修正
2023年5月7日:143,080



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リンク集

中津市の桜など

お願い
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著作権
このホームページは内尾 悟が責任を持って管理しています。
内容については中津在住の黒瀬 戦一さんと東京在住の内尾 悟の共同制作です。


おかこい山を新発見(動画)

平成23年6月9日の帰省時 日豊線の車中からおかこい山の残滓らしきものを発見、黒瀬さんに確認していただきました。
動画は帰京時 中津駅から山国川の鉄橋までを撮影したものです。


この位置にはおかこい山は残っていないと思い込んでいましたが、小規模ですが、奇跡的に残っていました。
昭和31年ころまで隣(東側)に住んでいた阿南 公浩さんによると確かに小山があったとのこと。



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2013

2014

20140520

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