中津城下町 金谷口と金谷武家屋敷跡

 



金谷辺(下級武士組屋敷跡)の案内図。

線路に沿って外堀が描かれている。
現状は線路部分が拡幅され暗渠になっていると思われます。
地図は西が上に描かれているので、
対比しにくいが江戸時代の金谷口付近の地図も参照ください。


上の地図と方向が90度違います、ご注意ください。

地図右下が金谷口です。


大正時代の金谷口付近。

B 広津口
C 金谷口
D 島田口

金谷口 御囲い山公園? 

工事中だった公園が25年11月に完成しました。
途中経過は黒瀬さんから聞いていたのですが 自分で写真を撮ってきました。
江戸時代はこの一帯を含め黒瀬家の敷地でした。
今回 土地を所有していた分家の方が 市に寄贈したようです。









金谷口の日豊線線路。
山国川鉄橋方向を望む。
中津城の外堀を埋め立てて線路を施設した。

写真 奥の部分には複線になる前は堀が存在した。
手前の道路部分も堀を暗渠にして、多少拡幅された可能性がある。


写真左側は金谷武家屋敷跡になる。
道路は 江戸時代の旅人が通った西堀端の道。
この道は山国川まで直線道路ではありません、外堀に沿って作られているので、。
山国川に近い部分の西堀端の道は上記地図のように途中から少し左側(南側)にずれています。

黒瀬さんの思い出話
(子供の頃)西掘端町は川に泳ぎに行く道でよく以前の様子を記憶していますが 中津に(40年ぶりに)帰ってきて完全に様子が変わり、
埋め立てられて 片端町の様に掘りの上に家が建っていました。
金谷口から西堀端方面へ行く最初の細い堀は日豊線の線路になっていますがここは昔は巾の広い蓋の無い溝でした。

其処から先に行くと道はL字に曲がった所から堀が広くなつていますが この堀跡は全部畑でした。
平たい畑では無くて お囲い山に向かってゆるやかに下つており其処に溝があり、
お囲い山の上はすぐに線路でしたが山の斜面はかなり背の高い雑木の林でした。

お願い
この付近の昔の写真お持ちの方 是非提供してください(現物は不要です、複写させてください)。


この部分 建物部分も含め外堀跡です。
地図で南側に堀がはみ出した部分に相当します。


江戸時代より続く西堀端の道。
右側は中津城の外堀跡。
上の地図などで南側に外堀がはみ出している部分に相当します。

旅人はこの道を通り、島田口から城下町に入った。
写真の奥が山国川、手前が金谷口方向になります。





西堀端側から東堀端側を見る。
写真左のガードは金谷口。

江戸時代の旅人はこの道を真っ直ぐに進み、島田口から中津城下町に入ったそうです。


旅人はこの金谷口は利用できなかったようです。


 


中津市の公式ホームページに中津城下町 町名 木戸口説明が新しく掲載されています。
城下町の町名、木戸口の説明があります、ご覧ください。

金谷本町


中津城下町 金谷武家屋敷跡
金谷口から南方向を見る。
この通りは金谷で唯一広い道路です。
名前の金谷本町も中心を意味するのでしょう。
この道路を中心に左右に細い道路が作られています。

中津城下町 金谷武家屋敷跡
金谷口方向(北側)を見る。
日豊線のガード見える。
その向うの樹木は金谷口 お囲い山の「たぶの木」

中津城下町 金谷武家屋敷跡
レンガ色の土塀の建物は元寺子屋でもあった、元寺院。




神戸大学の創立者を記念した公園。

水島公園




中津城下町 金谷武家屋敷跡

磯村豊太郎生誕の地

ウイキペディアによると
中津生まれ。慶應義塾卒業後、後藤新平の紹介で安岡雄吉らと共に1880年(明治13年)、逓信省入り。
その後まもなく辞職して日本銀行に転じ、また転じて三井家に入る。益田孝と面会し三井物産に入社。
北海道炭礦汽船に移り社長に就任。日本工業倶楽部四代目総裁を務めた。
また、1929年(昭和4年)には貴族院議員に勅撰された。


住居跡の看板が見える(2012年9月15日撮影)。


2008年7月29日撮影。




中津城下町 金谷武家屋敷跡








平成20年5月黒瀬さん撮影。
金谷武家屋敷跡の発掘調査。

場所は上記のお堂の位置にあたります。





金谷西の丁





中津城下町 金谷武家屋敷跡

中津城下町 金谷武家屋敷跡

中津城下町 金谷武家屋敷跡


金谷上の丁



中津城下町 金谷武家屋敷跡

中津城下町 金谷武家屋敷跡

中津城下町 金谷武家屋敷跡

中津城下町 金谷武家屋敷跡

ここ上の丁には作家 獅子文六(本名 岩田豊雄)の実家跡があります。



金谷森の丁



中津城下町 金谷武家屋敷跡

中津城下町 金谷武家屋敷跡

中津城下町 金谷武家屋敷跡 神社



中津城下町 金谷武家屋敷跡






中津城下町 金谷武家屋敷跡

中津城下町 金谷武家屋敷跡

中津城下町 金谷武家屋敷跡

中津城下町 金谷武家屋敷跡
「金谷山の神」の東端から大江八幡の森を見る。
写真右側に川があるが、江戸以前の大家川の跡と思われ、島田口付近から中津城下町の外堀となる。
川から右側は昭和30年頃までは蓮田だった。
道路を右側に行くと、大江八幡の裏の橋に通じる。



中津城下町 金谷武家屋敷跡

中津城下町 金谷武家屋敷跡



中津城下町 金谷武家屋敷跡
道路を真っ直ぐ行くと、大江八幡の裏の橋に通じる。

写真の後方のビルがある部分は昭和30年頃は蓮田だった。




中津城下町 金谷武家屋敷跡

中津城下町 金谷武家屋敷跡

中津城下町 金谷武家屋敷跡
写真の後方の森は大江八幡の境内。
この道は大江八幡の付近から萱津町になります。

中津城下町 金谷武家屋敷跡
昔の地図から想像するとこの付近(写真右側)に「留心学舎」があったらしい。

写真の左側は萱津町 安養寺



 

大部分の写真は黒瀬 戦一さん提供です。
江戸時代の地図は片端町吉本さん保管のもの。

「城下町中津」は黒瀬さんの協力を戴き内尾の責任で作成しています。

2006年2月12日
2008年5月18日
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大部分の写真は黒瀬 戦一さん提供です。
江戸時代の地図は片端町吉本さん保管のもの。

「城下町中津」は黒瀬さんの協力を戴き内尾の責任で作成しています。


2006年2月7日移転

2009年7月15日 移転








 2009年7月14日よりカウント