昔の中津町の写真

この写真はどこから、どこを向いて撮影したか不明です。

幼馴染の藤原重輔君から頂いた物です、情報有りましたら、教えてください。

中央の丸い看板の中央に縦にトラック 右に中津 上には大阪? 左は上海 下は小倉と書いてありそうです。


@電柱の碍子が多いので電話線らしい。中津で電話は明治44年頃、電灯は明治36年
撮影時期の特定に役立つかも知れません。
A中津ではないのではと先輩に言われていますが、トラックの看板に中津 大阪 他は左が上海? 下が小倉ではと思います。
トラックの看板の家の左側は婦人科と書いてあるようです。
小生は中津だろうと思っています。
B左端の洋風の家は見た記憶がありそうな感じですが、思い出せません。
C傘屋のある通りは交通の要衝という感じで、ただお寺が右端と言う感じから、もしかしたら豊後町か船町かも知れないとも思います。


結論

磯田さんとその父上のご協力で撮影場所が特定できました。
関係先を訪問して、確認していただいたそうで、有難うございました、感謝。
撮影場所は大正7年完成の宝館(映画館)の屋上から撮影したものと思われます。


その後磯田さんの父上が調べたところでは、大正10年12月に島田神社の鳥居が寄進されたそうなので、
この写真はそれ以前の撮影、おそらく宝館を建設中 その屋根の足場の上から大正7年に撮影したと考えるのが自然でしょう
明照寺の屋根の高さより さらに高い位置からの撮影です。
昭和20年頃の風景とは相当異なっているので、時代的にも納得できます。

トラックの看板の出ている家の前は仲町の通り、この道路は戦前では3ノ丁を除けば中津で一番広い道路でした。
この交差点は中津で最初の交通信号がつけられた(戦後)と記憶しています。
当時としては珍しい公衆電話もありました(戦後)。
トラックの看板の出ている家の左隣くらいの位置に戦時中から戦後にかけて西鉄の中津駅(バス)がありました。
あるいは関係があるのかも知れません。
自分が子供の頃は明照寺の前には消防団の建物が建てられていました、写真にはこの建物が無いので、撮影時期の特定に役立つと思います。
傘屋さんは確かに戦時中 この位置に傘屋があったと記憶しています。
母の実家が当時の駅裏(現 市役所の入り口近く)にありましたので、昭和20年頃は毎日のようにこの道を通りました。
ただ雰囲気が全く違うので、昭和20年より 相当前の写真と思われます。
島田神社の神楽殿はこの位置にあったことは記憶しています。
神社に入ると、左手に神楽殿、右手に池がありました。
神楽殿は戦後少し移動させた記憶もあります、その後の経過は不明ですが、比較的最近まで存在したと思われます。
池は戦後 早い時期に埋め立てられたと思います。
福沢どおりが拡幅されたのは戦後で、豊前銀行を壊した跡が道路になり、福沢どおりが線路まで延長されたのです。
戦前はこの通りは新博多町や京町と同じ道幅でした(6mくらい)。
写真説明の兵庫屋はおそらく中津で一番大きなお店だったでしょう。
小倉にデパートを出店するなどしたようですが、不景気で閉店し、中津の店も大正末には商売を止めたと記録にあります。
新博多町側は銅板葺きで大きかった記憶があり、幼児の頃までは家があったと思います。
昭和19年頃には空き地になっていましたので、何時取り壊したかは不明です。
この場所に防空壕を作っていた記憶があり、戦後大相撲の興行やサーカスが来ました。
その後 中津銀座が跡地にできました。
家の両脇には大きなレンガの防火壁があり、北側は最近取り払われましたが、南側は現在でも残っています。
美馬(かどや)金物店は20年の強制疎開の時も あまりに家が大きいので壊されずに残りました。
豊前銀行は強制疎開の後、現在の大分銀行の場所に移転しました。
現在の建物は2代目でしょう。

写真手前は豊田町で、城下町の外郭に相当、この前の道路が島田口から蛎瀬口に抜ける街道に相当すると思われます。
城下町では無いので、この当時わら屋根が多かったのでしょう。
傘屋の看板のあるお店は竹本屋で、当時 傘屋は、本町に「川島屋(現在は仲町の旧溝上酒店の建物)」と「竹本屋」、仲町に「恵良屋」と3軒あったようです。
トラックの看板のある店は筧商店とのこと。

豊前銀行左側の3階建てに見えるお宅は、見た記憶が無い、おそらく大西家(新博多町角の大西呉服店)の別荘ではと想像されます。
敷地が川(外堀)に面して 傾斜していたのでこのように見えるのでしょう、実際は2階建てのはず。
この付近は外側から見えませんでした、20年7月の強制疎開で壊されたものでしょう。
大西家の裏側の路地を入ったところにあり、凄いお宅があったことは記憶していますが、この方向から見たことはありません。
島田神社の神楽殿の位置は元々は中津城の外堀跡のはずで、埋め立て後の写真と思われます。
母が言うには一面の蓮畑だったとのことで、蓮見亭(現在の大樹ビルの位置)も作られた。
神楽殿の後方の建物はおそらくこの蓮見亭でしょう。


豊前銀行本店の正面
戦時中に大分合同銀行(現在の大分銀行)になりました。
昭和20年7月の強制疎開で壊されました。


写真左が豊前銀行 中央が宇佐屋 但しここは元々は旅館だったそうで、
何時から宇佐屋になったかは不明。


ほぼ同じ位置から撮影した現在の景観。
(厳密には上の古い写真は もう少し左寄りの位置からからの撮影)



大正7年頃に建てられた日出町 宝館 この屋上が撮影場所と思われます。
手前の石垣は金剛川。
写真集「中津」より。

写真と逆方向で写す。
平成20年10月撮影。
古い写真の傘屋の位置辺りに相当。


平成22年3黒瀬 戦一さん撮影。

なお2010年7月に帰省した時 奥様に確認したところ、
昔は島田神社の前で営業していたとのこと。
道路の拡張でこちらに引っ越してきた。




平成22年3黒瀬 戦一さん撮影

仲町交差点から南側を見る。
古い写真のトラックの看板のあるお店の南隣くらいの位置に正時堂(時計)がある。

平成22年3黒瀬 戦一さん撮影
明照寺境内




平成22年3黒瀬 戦一さん撮影

明照寺境内


平成22年3黒瀬 戦一さん撮影

明照寺境内


南部小 楠木

古い写真撮影時は校庭の位置に校舎があった。




撮影は西側からです。
楠は現在では上の写真のように校舎の南側にあります。
(校舎を北側にずらせて建てた)


校舎の裏側(南側)には築山があり、
この上には大きな木があった。
南部小 の楠木のの写真の運動場の位置で写す。
この築山は中堀の城壁の一部です。
延長線上に 現在でも片端町のおかこい山として残されています。

兵庫屋と南部小学校の間に3階建ての建物が見えるが旧竹内旅館(現在の伸栄旅館)と思われる。


明治から大正時代に作られたと思われます。
現在も営業中。


写真集「中津」より。
明照寺山門横の消防団詰め所。
建設時期は恵良屋の奥さんの話では昭和11年9月27日だそうです。。

現在の島田消防団詰め所

現在は住居として利用されているようです。
磯田さんの父上が平成22年3月6日撮影。


明照寺 山門の右隣が元消防団詰め所。
平成22年3月黒瀬 戦一さん撮影
古い写真の撮影場所はお寺の後方から。


仲町どおりから松竹館入り口
左手に明照寺がある。
駐車場の位置に生糸会社(その後 松竹館)がありました。


生糸会社があった位置、現在は駐車場。
撮影場所は後方の電柱のあたりか?。


日の出町へ抜ける通路、右側に宝来軒の本店がある。
左側が松竹館跡(撮影時の生糸会社跡)。

なお日の出町は完全な通称です。
京町や新博多町も行政上は通称ですが、
国の機関である法務局での扱いは正式名称として必要です(登記上の住所)。
ところが日の出町はそのようなものはありません。
登記上の住所は大字島田字上小川xx番地になります。
元々 島田口の前の橋の名前が日の出橋だったので 
日の出橋通り→日の出町となったのではと想像されます。

ちなみに旧国道10号線(現県道108号)の福岡銀行付近の通りは大正時代には旭橋通りと呼ばれていたようです。
これも蛭子川(元外堀)にかかる橋の名前に由来します。

これらの橋の名前は下記の地図にも書き込まれています。


大正10年発行の中津町地図、
地図右側の線路に近い生糸会社がこの写真の屋根に相当する。
なお地図の豊前銀行の位置は間違いなので、要注意。
ここには宇佐屋があり、その反対側(道路を挟んで南側)が豊前銀行。
地図にも生糸会社の表示がある。


掲示板からの追加情報
かつて傘屋は、本町に「川島屋(現在は仲町の旧溝上酒店の建物)」と「竹本屋」、仲町に「恵良屋」と3軒あったようです。
その82歳になる「恵良屋の奥さん」の話では、写真の傘屋は、「竹本屋」さんであり、
また、島田消防団詰め所の落成式は、昭和11年9月27日のことだったそうです。
盛大な式であったと、小学生ながらよく記憶しているそうです。
また、「トラック」と書いてある看板の商店は、運送屋さんで「筧商店」とのことです。
その他の情報として、島田神社の鳥居が写っていないように見えるのですが、
「恵良屋の奥さん」のお父さんたちが寄付をして建てたそうなので、鳥居の寄進の年も時代判定の参考になるかもしれません。





島田神社の鳥居 (撮影時期調査中)
なおこの鳥居は大正10年12月に寄進されたそうです。
鳥居の寄進年号の撮影は黒瀬 戦一さん。



平成20年4月撮影 偶然同級生が写っている。
島田神社の祭礼。
ピンクの帽子は同級生の三原(旧姓)さん。

平成13年9月黒瀬 戦一さん撮影 平成22年3月黒瀬 戦一さん撮影

中川カメラ店の解体工事。
この位置には昔(戦時中)神楽殿があった。




この写真は昭和37年撮影だが、
この松が上記写真の「中津城の松」と同じと思われます。



元兵庫屋の防火壁(赤レンガ)の名残です。
兵庫屋は奥の平屋の建物付近までの広大な建物でした。
戦後空き地になっていて、大相撲やサーカスがここで開催されました。
この写真は平成20年4月4日 内尾撮影。
この壁は左右対称に作られていました、現在は南側のみ、1部分が残されています。
家を壊したのが1942〜43年頃(想像です)ですから、ある意味よく残っていると思います。
子供の頃は見上げるような高さでした。
隣の建物を作る時に窓を開けたり、高さを低くしたのでしょう。
勿論 窓はありませんでした。
駐車場のところは、戦前 いがや 松田糸店がありました、屋根の形が残っているのが判ります。
その隣が井上紙店(お店) その前に井上紙店の倉庫があり、トロッコの線路が奥までありました。
井上紙店の隣 当時の国道側(現中津 吉富線)が伊達化粧品店 国道側に廻って我が家、
その隣が島崎自転車屋、その隣が宇佐屋の別荘(当時楠根さん 後の西鉄社長が住んでいました)
その隣が宇佐屋です。
宇佐屋と国道を挟んだ前(南側)が豊前銀行。
伊達化粧品店の国道を挟んだ前が大西呉服店。
 
明治19年ころの兵庫屋の写真。

兵庫屋は元禄11(1698)年、小笠原藩主に播州三木郡井上村から同行し、中津で兵庫屋を創立した。
十三代寿吉は明治大正期に百貨店方式の先覚者で中津・小倉に店舗を構える豪商とな
った。商いは呉服反物、小袖と質商であった。
(この項中津市のホームページより http://www.city-nakatsu.jp/download/machidukuri/inoue-masaharu.pdf




加来さんからの画像です。
手前にあるのが防火壁(上の写真の反対側:北側部分)。




写真は兵庫屋(山兵)の子孫の中野さんから提供いただきました。

平成23年8月16日 進藤呉服店の奥様の紹介で角兵の井上泰三さんに電話しました。
そのお話によると、兵庫屋(山兵)では銅板を雨戸に貼ってあったとのこと。
壊している工事の記憶が無いそうで、昭和15以降 進学で東京に行っていた時期のことではとのことでした。
実は幼児の頃の記憶として、自分も長年この赤銅(あかがね)の壁を気にしていました。
2階の位置くらいだと思うのですが、銅板が壁に貼られていた記憶があります、しかし 夢なのか現実なのかの区別さえつきませんでした。
記憶にあることからすれば、おそらく南部幼稚園時代(17〜19年)以降と想像します。
これで長年の疑問に終止符を打ちました。
自分が物心がついた時点ではこの建物が存在したことが明確になりました。
ただお店を開けていたのか、閉めていたのかは記憶にありません。
大正末に閉店したそうなので、商売をやっていなかった可能性が高いです。

戦時中ここに防空壕を作りましたので、時期は具体的には不明ですが、昭和19年後半には空き地になっていたと思われます。
この付近全体は その後20年7月に強制疎開で家を壊されました。
戦後は空き地であり、我々子供の遊び場でもありました、現在の「大地」の位置には蓬莱館を壊した梁の残材と称する大きな材木が放置されていました。
もしかしたら 兵庫屋の残材だったのかもしれません。

さらにここでサーカスや大相撲の興行もありました。
その後中津銀座が作られました。
なお昔 父母も店の拡張計画で井上さんにお世話になったとのこと、有難うございました。

 
上記写真の門とこの門が非常に似ているとの指摘を加来さんから頂いた。
2010年7月27日撮影。
自分がこの付近に引っ越してきた昭和27年にはこの状態であった。
上記の門を移築したのか、あるいは同じ棟梁が施工したのかもしれない。




店内の様子。
中央に吹き抜けがある。
遠景写真にある 2階屋根の窓はこの明かり取りだったようだ。

窓は東側にあけられている。



兵庫屋(山兵)のあった場所の現状写真。
右側は角兵 兵庫屋の跡。




中野さん提供。
左側は大正末期 右側は時期不明だが大正の初めころのものと思われます。
(小倉支店の名称が記載されている)
マークが兵の上に山が乗った形なので山兵とも言われた。
分家の兵庫屋は角兵という(四角括弧内に兵)。

明治39年に小倉魚町の支店を、大正5年に小倉鳥町に九州で2番目の百貨店を開店。
その後 井上寿吉社長が亡くなり、小倉支店を閉鎖、本店も大正末には営業を辞めた。
支店の建物は後に 小倉商工会議所になった。

今永さん編集の中津の写真集 58ページより。
栗山堂は中津で一番歴史のあるお菓子屋さんです(黒田藩時代から)。
この写真は比較的新しい、この書籍が出版された昭和50年代か?。
栗山堂の隣に吉村仏具店が見える、その隣は白鳥家具店と思われる。
この両者の敷地は現在マンション(エルパティオ京町)になっている。



平成23年8月17日撮影


平成23年8月17日撮影
なお右側の1軒向う(中央の建物)は兵庫屋(角兵)だった。
このお店は戦後洋品や生地のお店として繁盛していました。
兵庫屋(山兵 上記のお店)の分家です。



加来さんから提供いただきました。


● 所得税
▲ 営業税

この当時 山兵と角兵があることがわかる。
井上利兵衛 と井上祿郎が併記されている。
中野さんの調査によると 井上利兵衛の長女の娘婿が井上祿郎で、
その後山兵を継いだのが長男の寿吉(13代)とのこと。
これらの名簿からこの当時 いかに新博多町が繁盛していたかが解る。
なお明治25年の人名録には角兵が記載されていないので、その後の分家と思われます。







NOS FM 789 vol.022 2011.8 より転載 昭和12年ころの中津のお店



@ひめじ屋は昭和20年まで新博多町 今倉呉服店の北隣で営業。
A丹羽茶舗も現在も京町で営業。
市営京町住宅の前。
B武蔵屋 現在も営業。
蛤汁粉が有名です。
C久富ラジオ 戦後も新博多町(旧国道 現在の新博多町交流センターの一部)と京町(市営京町住宅の北隣)で営業していた。
Dムラキ履物店 記憶にない
E丸通 記憶あり  日本通運になったのではと思います。
F大賀屋 古博多町 郵便局の前に昭和20年の強制疎開まであり。
G嶋沢本店
H東京堂
I三津屋 新博多町交流センターの駐車場の位置、もっとも現在の交流センターは三津屋の建物、戦後拡張してここまで大きくなった。
J恵良薬局
K丸平 瀬口商店 昭和20年の強制疎開までは魚の辻に、戦後は元兵庫屋の斜め前(現京町アパート)の位置に移転。
L耶馬溪クラブ
M室屋
諸町で現在も営業しています、我が家では刺身用に御前醤油を買っています。
N今井眼鏡店
新博多町で電気屋さんを営業。
Oささや  京町4丁目にありました、幼馴染の同級生が店主ですが、2009年に閉店しました。
特に丸ぼーろが美味しかったのですが、残念。
寛保年間の創業ですから、老舗中の老舗です。

P
Q
R
S
21:山田洋品店 
22:田渋醤油店 
23:重松写真館
24:宮永商会
25
26千金丹屋 京町3丁目角で営業していた、同級生の実家。
27:マツナガ
28:べにや
29:
30:みかど

32:井上時計店
33:丸吉呉服店
34:吾妻ずし
35:上り 中津市 銀行

栗山堂は京町2丁目で現在も営業しています。
創業400年くらいある 中津でもっとも古いお菓子屋さん。


大分合同銀行中津支店と中津銀行はその後合併し、中津銀行は大分合同銀行船町支店となりました。
中津支店はそのまま京町にありました。
昭和18年に大分合同銀行は豊前銀行と合併し、豊前銀行の位置で中津支店となりました。
この時 京町の店舗は無くなったようです。
元の豊前銀行の店舗の斜め前にあった戦後の大分銀行(合同銀行から名前を変えた)の中津支店は豊田町に移転、
その跡に船町支店が引っ越してきて福沢通り支店と改称しました。


旧 福岡銀行中津支店


この建物は昔第百三十銀行→安田銀行(昭和8年ころ)→17銀行(昭和20年ころから福岡銀行)として使われたものです。
現在はアパートになっています。
なお昭和30年代は正金相互銀行(現在の福岡中央銀行)として使われた。
上記の双六の上り 「十七銀行」に相当。
福岡銀行は昔の宇佐屋の場所(豊前銀行の前)の位置で営業しています。

2010年7月26日 木下さん(木下履物)に確認したところ、福岡銀行に間違い無いとのことです。


田渋金物店(京町)




昭和30年代と思われる住宅地図





2009年10月23日
2010年2月28日:176  撮影場所が特定できたので資料を追加。

撮影場所の特定など磯田さんとその父上のご協力がありました、重ねてお礼申し上げます。

2010年3月2日:216 中津城の松の写真を追加。
2010年3月2日:島田神社の鳥居の寄進時期が判明 説明を追加。
2010年3月5日;248 黒瀬 戦一さん撮影の写真を追加。

2010年3月6日:現在の島田消防団の詰め所の写真を追加。兵庫屋の防火壁を追加。

2010年3月8日:兵庫屋の写真を追加。
2010年7月28日:
2011年8月8日:1,095 兵庫屋の写真や封筒を追加。
2011年8月10日:1,107 門の写真を追加。
2011年8月18日:1,156 兵庫屋の赤銅(赤がね)などの記載を追加 昭和十二年の双六を追加。
2011年8月27日:1,204 加来さんの提供による明治31年商工人名録を追加。
2011年10月19日:1,384 



 2009年10月23日よりカウント