中津城


2008年4月4日撮影。

中津城は1587年黒田孝高(如水)が豊前6郡の領主として入国。
最初は大塚山の砦を修築し、根拠地としましたが、1588年中津江太郎の居城であった丸山城をを補修して中津城の築城に取り掛かりました。
その形から扇城ともいわれます、住所は大分県中津市2の丁です。
黒田如水縄張図(下の画像)には本丸 2の丸 3の丸の他に京町 博多町などの記載があります。
1600年に黒田藩が福岡に転封となり、細川忠興が入城します。
息子の忠利を中津城にいれ、1603年から1620年まで増改築を行います。
1615年の一国一城令で破却の危機になりますが、例外的に残ることになり、忠興が1620年から隠居城として利用します。
本丸 二の丸 三の丸 八門 二二の櫓が設けられ、ほぼ現在の形が整います。
1632年細川氏の熊本転封に伴い 小笠原長次が入り、城下町の整備を行います。
1717年 奥平昌成がいり、1871年(明治4年)の廃城まで居城としました。
上記にある京町 博多町は現在でもそのまま続いています。
黒田家が中津に入った時にすでに京町は存在したようです。
中津駅から観光に訪れる場合、約1Km程度です。
飲食店は、入口の堀の横の蓬莱園でお茶(コヒー 日本茶 食事)が飲めます。
家族的雰囲気ですが、趣味的に営業しているので 火曜日と水曜日はお休みです。
中津市立小幡記念図書館前の道路を南部小学校・生田門の前を通って大鳥居に向かってください、堀のすぐ手前です。

   



黒田如水縄張図

画像は上が南で、下が北なので、現在の地図と逆方向になります。
地図を180度 回転させてご覧ください。
高瀬川(山国側)の右側が現在の福岡県、左側が大分県中津市になります。

但し 不審な点はあります。
大家川の記載が無いことです。

大家川を金谷で塞ぐ工事をしたのは 細川藩の時代で 黒田時代には川が存在していたはずです。
大江八幡神社と中津南高の間の低地(現在は住宅地になっていますが、昭和30年代には田圃と蓮田でした)はその川の名残です。


詳細は中津市教育委員会発行の「中津城を知る」pdf版をご覧ください。
上記は中津市のホームページにあるものです。


「中津市の郷土史を語る会」が作成した絵図です。
現在の模擬天守は薬研堀(二ノ丸と書いてある文字の上)上に作られています。
本丸は高さの違う上段と下段に分かれています。
上段は神社の敷地になっています。
下段は図の松の御殿付近に中津神社があるだけで、広場になっています。



この地図(中津市設置)の方位は右上が北です。


三ノ丁駐車場の隣が西側の堀、その下側が東側の堀です。
天守閣の下の堀は薬研掘。

2009年5月12日9:24 撮影
下の堀は薬研掘。



明治時代初期の中津城の櫓の写真

上記模擬天守がある位置にはもともとこのような櫓があったらしい。
最初 建物の場所は特定できなかったが、石垣の積み方からこの位置ではないかと思われます。
松の御殿と言う説もありますが、場所的に符号しないようです。


写真帳で見つけた中津城の写真です。
中津城は明治4年頃に壊されていますので、明治1〜3年の古写真でしょう。
位置が不明でしたが、現在の天守閣の位置らしいと判明しました。
手前側の堀が埋め立てられているように見えたのですが、
現裁判所の敷地から写した下記の写真と同じところからのものではと想像されます。

最初 手前側の倒壊した掘立小屋が堀の中にあると思っていたが、
堀は現在まで埋め立てられていず、大きな疑問でした。
裁判所の敷地は道路より 1m位高いので、
この位置から撮影すると、この小屋が道路上にあったとしたら、現在の風景と符合します。
江戸時代は上記地図から厩があった場所らしいです。



向野先輩にここだと言われたので、現地をよく見てきました。
道路より 一段高い裁判所の敷地から撮影するとこうなります。
上の掘立小屋の位置は通行人の位置から5m位右側か?。
2010年4月3日撮影。


この写真は昭和37年ころの撮影です。
中津城薬研掘の古写真です。
石垣の上にはお城の建物はありません。
奥平神社(当時は三所宮と呼ばれていたと思う)の境内です。
江戸時代は現在の裁判所の位置に鎮座していたもの。
明治になって中津神社 大神宮 城井神社 扇城神社 金刀比羅宮などと一緒に遷座したものと思われます。
昭和39年ころ 奥平家の子孫(実際は養子)と市民の浄財で模擬天守を作った。
模擬天守は奥平神社の土地部分に建設されているので、
城が売り出されたときに揉めに揉めた。


   


黒田に石垣と細川時代の石垣

右側は黒田時代の石垣です。
細川時代に左側に拡張したようです。
左側の延長上に模擬天守があります。

画面右側はや山国川の支流(中津川)です。
もし黒田時代に天守閣があったとしたら、
現在城井神社になっている、右側の位置に存在したと考えるのが自然です。


中津城の歴史、古い地図


三斎池の説明板

細川忠興は三口から御水道と呼ばれる水道を城内まで引き入れました。
1622年年のことです、九州における近代水道としては最初のものと言われています。
江戸の玉川上水より早いのですから。
この池がその終点です。



中津城 本丸下段
ここでは中津上祇園が行われます。
昭和30年ころまでは南部小学校 城南中学の運動会もここで行われました。
また4月ころ春の市という行事が行われていました。
1〜2週間仮の建物を建設して大売出しが行われたのです。
自分が学生の頃はまだやっていましたので、昭和30年代後半ころ中止されたと思われます。


本丸下段を東側の石垣上から見る。
右側に独立自尊の碑が見える。



本丸下段を東側の石垣上から、角度を少し変えてみる見る。
左側に大鳥居や内堀が見える。
もともと 反対側の西側の石垣と一体で連結されていたもの。
明治になり、こちら側に道路を作ったので分断された。


本丸 下段
2011年10月31日撮影

天守閣から見た本丸下段


2008年7月27日撮影。
天守閣から見た本丸下段(画面中央部分)、祇園祭が行われている。
手前の建物は中津大神宮です(この部分本丸上段)。

右側の橋は小祝橋と山国橋。
画面中央にサーパス中津城が見える。

NHK大河ドラマ 「軍師 黒田官兵衛」放映決定をうけて 幟がはためいています。


2013年5月17日撮影

公衆便所の隣に、2013年急遽 黒田官兵衛 みやげ館が建設されました。
(公衆便所と大鳥居の間)


2013年12月4日に開店式があった。
NHK大河ドラマ 軍師 黒田官兵衛の影響です。
(黒瀬さん撮影)

中津城 本丸 上段 城井神社横の石垣上(鉄門の上)で。
2014年10月10日 撮影
背後は中津川を挟んで小祝になります。更に後方に山国川を挟んで福岡県吉富町の旧吉富製薬(田辺三菱製薬)の工場の煙突が見える。



中津神社  中津上祇園 
中津神社の祭礼です。
中津神社は明治16年3月31日 大江八幡宮の分霊や新魚町の六所宮(もともとは現在の城内にあったが黒田氏が遷座した)、
片端町の義氏社 諸町の恵比寿宮 御小屋の稲荷社(後藤又兵衛屋敷跡)を併せ祭ったもの。
なお明治13年鎮座という記事もあり、どちらが本当か不明です。
明治16年は下毛郡史と中津市史による。

平成23年中津祇園
平成22年中津祇園 動画

平成22年中津祇園
平成21年中津祇園

平成20年中津祇園
平成18年 中津祇園
平成17年 中津祇園


祇園祭り当日の様子です。
祇園車は順次公園地を離れて市内巡幸に出かけています。
夜になると賑やかになります。
石垣の上から撮影。
夜の公園地(中津城公園)

夜になると巡幸から順次帰ってきた祇園車が帰ってきます。
20〜30分くらい広場で引き回します。
練りこみの様子は動画をご覧ください。
どこから集まってきたかと疑うような人出で賑わいます。
夜店も沢山 出店しています。
本丸 西側石垣


西側の石垣上から、東方向を見る。


少し角度を変えて写す。
前方の建物は蓬莱園。


上記石垣から本丸下段を望む。

中津城黒門(正式な入口)

中津城 黒門跡
中津城黒門跡。
正面は裁判所。
大手門を入り、この黒門を通って城内に入る。


livedoor地図

大手門石垣と三の丸生田家屋敷門。
中津市立南部小学校 生田門
生田門です。
南部小学校の校門として使われています。
それ以前には学問のすすめで有名な中津市学校の校門として使われました。
小学生の頃、正面は常に開いていました。
通学していた頃は門が閉じられたのを見たことはありません。
この当時は使われていなかったのでしょう。

門の左側には昔の長屋が残っていて、宿直室や小使さんの部屋になっていました。

この写真は元の位置から西側に数十m移動した時のもの。
その後 写真 手前側の石柱の位置に移転(武徳殿 現錬心舘)の門として使われた。
更に 解体後 保管され その後平成十三年 現位置に再建された。




南部小学校生田門
平成13年4月1日16:50 撮影
復元直後の撮影です、上の写真と比べてみてください。
位置が100m位移動しています。
もともと北向きだったのが西向きに変わっています。
江戸時代には前面の道路はありませんでした、明治になって作られたものです。
下の地図の奥平図書邸の部分に移転したことになります。


江戸時代の地図です。
黄色の部分が南部小学校の敷地に相当します。
現在残っているのは大手門と書かれた地図の下側部分。
自分が小学校に通った時代は大手門の内側部分は中津警察署でした。
黄色の部分がはみ出して見えるのは堀を埋めて敷地にしたからです。
また生田四郎兵衛の隣の奥平図書側にもはみ出しています。
地図右側の大手門石垣の残存部分が下記左側の石垣です。
江戸時代は石垣が切れる道路部分にも石垣があり、右手に大手門があった。

地図下側の土手は中堀のお囲い山です。



中津市立南部小学校 生田門
昭和35年撮影の三ノ丁。
左側に生田門が見える。
左の石垣は中津城大手門の石垣。
右側に中津中央公民館の文字が見える。
ここは元中津警察署があった場所です。
現在は南部幼稚園になっています。
写真の校舎も自分が通学する時はありませんでした。



中津城 大手門石垣
石垣の上の桜は卒業記念樹だったそうです。
現在は伐採されています。

雪の中津城

非常に珍しいです、写真は黒瀬さんが撮影したものです。


大手門石垣。
2月前に帰省した時壊していたが、復元したようだ。

平成17年1月1日撮影。



南部小学校 生田門。

平成17年1月1日撮影。
もともとはこの位置ではなかった。
三の丸の生田家(家老)屋敷門。




公園地(通称)入り口の鳥居。
この右側に創立直後の旧城南中学が有った。
平成17年1月1日撮影。




中津城内 本丸下段鎮座
中津神社
平成17年1月1日撮影。


独立自尊の碑
平成17年1月1日撮影。


平成17年1月1日撮影。


中津城天守閣と薬研掘

平成17年1月1日撮影。


平成17年1月1日撮影。

中津城水門跡

中津城 水門跡
向こうは汐湯。

livedoor地図

中津城 水門跡
昭和38年撮影。
汐湯方向からの撮影か。




中津城 天守閣
中津川(山国川の支流)岸から見た天守閣。




平成18年正月
中津大神宮(本丸上段)の初詣です。
(黒瀬さん撮影 2006年1月1日)

古い時代の中津城内の神社の写真(昭和5年)と現在の写真

中津城内には中津神社 中津大神宮 奥平神社(三所宮) 城井神社 扇城神社 金刀比羅宮があります。
これらは明治一〇年代に鎮座したようです。
金刀比羅宮

昭和20年代後半も全く同じでしたね。
この下に中津城の鉄門があり、良く其処から川に下りてゆきました。
城南中学時代は昼休み必ずといっていいほどここまで来ていました。
しおまねきが沢山いました。

当時の城南中学は写真の後方(城の南方向)ですが、現在の城南中学は写真の後方(城の北)になります。
こんなわけで最近は名前も城北中学に変えました。

平成17年の金比羅様。
建物は建て替えられている。
鉄門は崩壊の恐れがあるということで何時からか埋め戻されてありません、寂しいです。

鉄門跡





鉄門の出口があった場所。
現在は埋められている、木の立札(写真中央)がある。
右側は中津川。
2008年4月撮影。


鉄門を出口側。
河川敷は小さな公園になっている(工事中の写真)。
現在は完了しています。
ここでお祭りも行われました。


金刀比羅宮 横から小祝方向を見る。
昔は小祝と小倉口の間に蓬莱島がありました。
(向川原 蓬莱町)
昭和19年の台風で島ごと流されました。
現在はありません。

蓬莱島は中津の古い地図をご覧ください。
昭和24年発行分ですが、この時の地図に残っています。

城井神社

黒田家に謀略で殺された宇都宮の一族を祭る。
家来は寺町合元寺に祭られている。

こちらにも合元寺の写真が。

平成17年の城井神社。
70年以上ほぼ同じ風景で驚きます。
夏になると蝉の声が聞こえてくるようです。
中津大神宮

中津大神宮


左の灯篭によじ登って遊びました。
ぐらぐらしていた記憶があります、今考えると怖いです。


中津大神宮です。

三斎の池


幼児のころ幼馴染が池に落ち、ガラスの破片で怪我をした記憶が有ります。
昭和20年頃はこんな景色だったのか記憶が定かではありません。

中津 御水道の終点と言われています。
三口から水道を引いた、近代水道としては九州最古のものと思われます(1622年)。

池の向こうには独立自尊の碑が有りません。
小高い部分がありますので、この上に移設し、周りを囲ったのかも知れません。
元の碑に比べ 現在のものは最下段が増設された形になっています。
この写真は昭和5年のものです。
加来さんの調べでは昭和7年10月18日に現在地に移転したそうです。


現在の三斎の池。
池の向こうは独立自尊の碑です。
珍しく 池の大掃除をしていました。
2013年11月30日撮影


忠魂碑は昭和4年頃建設されたそうだ。

中央は西南戦争中津隊の碑。公園地上段中央にあります。

この当時の独立自尊の碑は公園地の中央にあったそうだ。



この当時鳥居は公園地の中央にあった。
この鳥居は二ノ丁(裁判所)からの入り口に写されているのを黒瀬さんが発見。
写真の後方に100mくらい移動。



上の鳥居はこちらに移転していた。
裁判所に出る方の入り口。
もともとはこちらが大手門から続く 正式な入口になる。

現在の大鳥居
三ノ丁側の入り口にあります。
前方左側鳥居の陰に南部小学校の校舎が見えます。
左側は発掘調査中の元城南中学跡、江戸時代はこの道はありません。
この部分は本丸の石垣が有った部分です。
ここから手前が本丸です。





独立自尊の碑を移設する前の敷地部分です。

写真右側に見えるの中津城の椎木門の石垣。


独立自尊の碑は移設時 最下段が増設され、1段と高くなっている。
城南中学時代はこの上によじ登って遊びました。
もっとも転落した事もあります。


本丸上段にある 西南戦争 中津隊の碑。
写真は下段から写したもの。

中津 旧扇城 


17年7月中津祇園に帰省した時 この様な絵図を見つけてきました。
大分県の商家の店構えの案内図の1部です。
明治の中頃から初めに近いと思いますが、時期不明です。

これを見ると
@独立自尊の碑はない。
A蓬莱観(明治15年)はある。
B内堀がある。
C南部小の角に位置する部分に鳥居がある。
 本丸上段にも鳥居があり、現在位置と異なる。
D汐湯がない。
E中津警察署(明治10年)と思われる建物あり。
F下側手前の現カトリック教会がある位置の建物は末広会社と思われます。
G中津神社(明治13年鎮座) 金刀比羅宮 大神宮 奥平神社はあるが、城井神社の位置に建物が無い、現社務所の位置にお社があるので、あるいは移転したか。
上段が大きく書かれていて、下段が実際より狭く感じる。

奥平神社


桜の奥平神社。
江戸時代は現在の裁判所の敷地内にあったそうです。
三所宮と言っていたが、昭和39年ころ奥平神社に改称したようです。
2010年3月31日撮影。

なお境内には模擬天守閣があります。
内部は有料で公開されています。
詳細は下記をご覧ください。
中津城公式ホームページ


黒田官兵衛を主人公にしたNHK大河ドラマの放送をきっかけに資料館を急遽作ることになった。
旧奥平神社 社務所があった場所です。
2013年11月30日撮影

中津城 西門

中津城 西門跡
(livedoor地図)



二の丸

この部分は現在公園と裁判所になっています。
公園部分はかっての中津高女 現在の中津北高がありました。
写真の堀は薬研堀です、現在の中津城のすぐ近くの鳥居の付近から撮影したものです。
撮影時期は不明ですが、昭和30年代 初め頃です。
当然ですが、天守閣はありません。

中津高女 中津北高


中津高女 中津北高
絵葉書です。
下毛郡立高女になっていますので、明治44年設立ですが、
この創立時は片端町の現図書館の位置にありました。
その後新校舎を建設し、大正4年には中津高女になっているので、それまでの間の写真と思われます。

中津高女 中津北高



現在の二の丸


旧中津北高の跡(二ノ丁の公園)。


中津北高の校地だった部分は二の丸公園になっています。
桜が見事です。



公園地(中津城内)にあった忠魂碑も現在では、
旧中津北高の跡地の二の丸公園に移転している。

忠魂碑の近くにまなびやのの碑が(2013年3月28日撮影)

今まで見かけなかったので驚いたが、3月1日に建設したばかりだった。








2013年10月に帰省した時 観光バス用の駐車場を整備していた。
黒田の石垣の前 二の丸公園(旧中津北高の跡地)。


裁判所の敷地内の桜。


平成25年3月28日撮影(パノラマ 合成)






右側が裁判所です。
江戸時代にはこの部分に長福寺がありました。
江戸時代には三所宮(現在の奥平神社)がその中に鎮座していたそうです。

中津城発掘調査説明会

平成一六年に行われました、この時 帰省していて受講しました。
発掘の結果などについては中津市のホームページにPDFの詳細な説明書があります。



平成16年10月9日撮影。


平成16年10月9日撮影。


平成16年10月9日撮影。
当時の石割の仕組みと道具。

西側(蓬莱園側)の堀復元(この堀には正式な名称は無いようです。)


左側に蓬莱園(喫茶店)があります。
ぜひお寄りください(10時から 、火 水曜日は休み)。


昭和37年撮影の堀跡。
左側は蓬莱観跡。

忠魂碑の近くに枝振りのよい松ノ木が見える。
幼児の頃は堀が残っていたと記憶しているが、
昭和二四年ころ城南中学の校舎を東側の石垣を壊して建設する時に残土を埋めたと記憶している。

段階をえて堀が狭くなった記憶があります。


工事開始前に黒瀬さんが撮影。
工事開始前はこんな状態でした。
  

完成した様子、平成20年4月4日撮影。
内堀と本丸西側の石垣。


反対側(汐湯側)から見た堀跡。
工事前の写真。


完成した様子、平成20年4月5日撮影。


城壁が堀側にせり出した部分から撮影。
工事前の写真。

昭和20年代末までは手前側は水が残っていた。
その後埋め立てたらしい。


現在の状態です。
ほぼ同じ位置から写す。




平成14年7月28日撮影。



完成した様子、平成20年4月4日撮影。


平成17年1月28日撮影。
一旦 埋め戻したようです。

これは下の写真のように反対側の側壁を作成するためのようです。



平成17年2月19日撮影。
左側は明治15年に出来た「蓬莱観」の跡地。
この劇場は終戦直前に取り壊された。

写真先方奥は汐湯。
完成した様子、平成20年4月4日撮影。

東側(昭和20年代創立時の旧城南中学校舎跡、この堀には正式な名称は無いようです。)の堀復元



昭和28年頃の東側 城南中学の校舎があった。



左前方に小幡英之助の銅像が見える。
旧城南中学(創立時)の跡地。
左側に独立自尊の碑がある(写真には無い)。

大鳥居 前の道路から写す。


発掘調査中。


復元が進みつつある石垣。

平成17年2月19日撮影。


平成17年2月19日撮影。


平成17年12月17日撮影。


平成17年12月17日撮影。
平成17年12月24日撮影。



平成17年12月17日撮影。


平成17年12月24日撮影。

平成17年12月24日撮影。



平成17年12月17日撮影。
昭和20年頃には石垣がありました。
その後城南中学の校舎を建設するために破壊したと思われます。



平成17年12月17日撮影。
創立時の城南中学の校庭の相当します。
写真は東側から西側に向かって写しています。



旧城南中学の跡地も堀に戻されている。
ほぼ旧校門の位置から撮影。


撮影場所を90度ほど角度を変えて。


2つ上の写真の反対側から撮影。



完成した様子、平成20年4月4日撮影。
(東側の堀)

平成21年9月撮影 黒瀬さんよりの写真です。

西側の堀
いつの間にか蓮が植えられています。


この堀は西側の堀です。




写真の奥は汐湯方向。
左は蓬莱園 右 中津城(公園地)。
東側の堀

写真は元 城南中学校庭跡。
左は中津城(公園地)。
東西の堀

江戸時代にはつながっていました。
鳥居の位置は本来は石垣です。

写真手前は元 城南中学跡地、右は中津城(公園地)

その他の場所での工事中の様子



平成17年12月17日撮影。

三斎池の近く 独立自尊の碑前で井戸を掘っているそうです。
この池は1622年開通の中津御水道の終点です。
最近は水道水を使っているので、あるいは節水の為か?。

堀に入れる水の確保が目的かも。

中津城の堀復元工事完成間近
黒瀬さんから最新の写真を送っていただきましたので、掲載します。
2008年2月19日


小祝側から見た中津城と水門


水門(海水取入れ口)
ここから取り入れた水は薬研掘に入ります。



水門の城内側(海水取入れ口)
この水路の先が黒田の石垣の画像右側に続きます。

薬研掘 (本丸と2の丸間の堀)



薬研掘に海水が満ちている状態。


薬研掘の水位が下がっている状態。




この部分から暗渠で他の堀と結ぶらしい。


裁判所側の鳥居下を通って独立自尊の碑前の暗渠工事。




逆方向から見た写真。

2009年11月20日撮影
公衆便所を手前側に移転するようです。


大鳥居前で左折して(南側に)道路中央に暗渠を作っている。
おそらくここで左右の堀とつなぐことになるのでしょう。
(昭和25年頃は 写真右側の位置に城南中学の校門がありました。)


大手門石垣の修復


中津市立南部小学校 生田門
昭和35年撮影の三ノ丁。
左側は南部小学校、左に大手門の石垣がある。

中津城 大手門石垣
平成14年7月撮影の大手門石垣。
樹木が大きくなって、石垣がはみ出し、
危険と言う事でその後伐採されたようです。

livedoor地図

中津城 大手門石垣
石垣の上の桜は卒業記念樹だったそうです。



大手門跡と南部小学校。
平成16年5月撮影。


中津城 大手門石垣
無残に伐採されています。
時期は不明ですが、平成16年の桜の開花後〜11月の間と思われます。



中津城 大手門石垣平成17年一月には復元済。
平成25年3月26日撮影

南部小学校の北側にお城風の壁が出来ていました。
生田門を含む 西側は未完成ですが、これから工事するものと思われます。
(画像 左端が上記大手門石垣)


平成25年1月27日撮影(工事中の様子)



平成22年3月30日〜4月3日に撮影


戦後長い間あった公衆便所が移転した。


戦後長い間あった公衆便所が移転した。
手前 左側の位置に。























日本の歯科医師の第1号と言われる小幡英之助の像がある部分も修復されています。



裁判所の庭にある桜です。
この部分は二の丸です。



昭和38年1月撮影。
薬研掘の写真です。
右後方の中津北高の校舎は取り払われています。

なお 3ノ丁に昔住んでいたからの情報では南部小学校の校庭に昔残っていた小山(石垣)の延長が現サーパス中津(マンション)付近の敷地内にも昭和10年代には残っていたそうです。

城下町中津のゲストブックの書き込みより抜粋)
写真のサーパス中津城内側の各屋敷内後背地に連続した土陵があり、おそらく南部幼稚園内にあった小山(城壁跡)につながっていたのでしょう。

南部小学校の西側に昔 職業安定所があり、その裏付近に昭和20年代まで土塁が有ったのは記憶しています。
恐らくお城の西門付近から南部小学校の敷地まで連続して石垣(あるいは土塁)が有ったのでしょう。
現講堂の付近から直角にまがり、大手門石垣(上記写真参照)に続いていたはずです。

歴史民俗資料館

城内 公衆便所の移転(2010年)

戦後 作られた公衆便所の位置が50mくらい離れた位置に移転した。
元の場所は中津城の椎の木門の横に位置するので、問題があったのでしょう。
自分が幼児の頃(昭和20年以前)には元に位置には鳩小屋(電柱の上に小屋)があった気がする。




新しい公衆便所
復元された石垣の城内側です。
背後の石垣は昭和24年ころ壊されて、城南中学の校舎が建てられました。




古い公衆便所
後方の建物は裁判所です。

黒瀬 戦一さんからの情報です(2010年3月19日)。
古い便所の除去が始まりました。


黒瀬 戦一さんからの情報です(2010年3月19日)。
中津城 本丸椎の木門

黒瀬 戦一さんからの情報です(2010年3月19日)。
古い便所は綺麗になくなりました。


黒瀬 戦一さんからの情報です(2010年3月19日)。
新しい公衆便所です、大鳥居の隣にあります。


2010年6月26日黒瀬 戦一さんからの画像です。
大鳥居 東側の堀には蓮が繁殖しています(西側に堀も同様)。




終わりました、ご協力有難うございました。
この展示会が切っ掛けか中津市と新城市は災害応援協定を結んだ。

新城市設楽原歴史資料館 秋の特別展

黒瀬さんの鎧などが出品されます。



 



2005年1月29日
2005年12月19日 12月17日撮影の写真は全て黒瀬 戦一さんの提供です(その他も黒瀬さんの写真が多い)。
2005年12月26日
2005年12月27日

2008年2月19日:1339 黒瀬さんから堀を暗渠で結ぶ工事の写真を送っていただきましたので掲載しました。
2008年4月13日:1427 写真を追加するなど、大幅に変更しました。
2009年4月14日: 引越し
2009年7月14日:修正
2009年10月19日:158 最近のお堀の様子を追加。
2010年2月22日:333 新しい公衆便所の写真を追加。
2010年6月28日:521 堀の様子(蓮の花が開花)
2011年10月18日:1,541 新しく画像などを追加し 全面的に更新しました、表題も変えました。
2011年10月22日:1,581 更新。
2011年11月5日:1,650 更新。
2012年11月12日:4,861 更新。
2013年3月31日:7,117 更新。
2013年12月11日:12,154

 2009年7月14日よりカウント
ご意見ご希望は城下町中津の掲示板にどうぞ