中津城下町 小倉口と小倉橋 (小犬丸の渡し  広津の渡し)



外堀は現在は狭くなり、小さ小倉橋が架かっている。
江戸時代はここが中津城下町の表玄関だった。
写真の向こう側が小犬丸渡しの位置になる。
延長線上に中津街道の写真の道がある。

但し 身分の高い武家しか通行できなかったようだ。

下級士族 領民は渡守口(広津口)を利用したらしい。
さらに旅人は島田口まで回らなければならなかった。

小倉口の場所(livedoor地図)
中津市の公式ホームページに中津城下町 町名 木戸口説明が新しく掲載されています。
城下町の町名、木戸口の説明があります、ご覧ください。

 

中津城下町 小犬丸渡し

小倉口の対岸 吉富町にある標識。
中津の入り口は小倉口とばかり思い込んでいたが、
どうもこの標識を見ると、藩主ほか身分の高い武家しかこの道は通れなかったらしい。
藩士でも身分により もう少し上流で渡し舟を使い、広津口を使ったようだ。
場所は正確には不明だが、日豊線の鉄橋の付近だったのではと想像している。

特によそ者はこの広津口からは入れず、金谷口の前の道路を迂回して、島田口から町に入る仕組みになっていたらしい。

ご存知の方教えてください。
他国者はお囲い山の外、外堀を迂回して島田口が入り口だったらしい。




小犬丸渡しから見た中津城


山国川岸(小犬丸)から中津城方面を望む。
写真左端に小祝橋があり その中間に中津城天守閣が小さく見えます。


福岡県吉富町の中津街道

中津街道を山国川岸から小倉方面を望む。
この場所から藩主などは船で渡舟、小倉口へ。
上記の標識はこの近くにある。


広津の渡し

旅行者や庶民が利用した広津の渡しの位置は不明ですが、恐らく日豊線の鉄橋付近と思われます。

後方の山は中津のシンボル 八面山
山国橋の下付近(福岡県側)から撮影。
左側が金谷の土手。

江戸時代(1802年頃)の筑紫紀行という菱屋平七という人が書いた旅行記には
「はち屋村 人家300軒、また1里にして沓川を徒歩にて渡る、十四五丁行けば、領地の境のしるしあり、
これより東を中津領、さい川を徒歩渡り三丁ほど行くと小犬丸村、
人家五六十軒あり、村を出はるれば中津川なり、川向かいに中津の城の南手の塀櫓見ゆ、
これより川筋を一丁ばかり上りて舟渡しあり、ここは奥平大膳太夫殿のお城下なり、入り口ごとに見付番所あり、旅人を入れず。
町屋の内、何某かたに用事ある由を断るものあれば、許しているのみなり。
城下の外に堀を掘りめぐらして、旅人往来の道あり、川を渡りてより三四丁の間、足軽屋敷の前を通りて、
城下の外町 島田にいたりて 萬屋小左衛門というに留まる。
ここ町屋四五十軒あり、宿屋というものなく、こよいの宿れる家は綿穀物などを商う家なり。

(以上は中津藩の歴史 下巻から抜粋)

 


中津城 西門


(livedoor地図)




大部分の写真は黒瀬 戦一さん提供です。
江戸時代の地図は片端町吉本さん保管のもの。

「城下町中津」は黒瀬さんの協力を戴き内尾の責任で作成しています。

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2009年7月15日 移転






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