中津城下町 お寺紹介

城下町を作る時に東側の外堀に沿って寺町を作り、防御にしました。
城下町内のお寺はこの寺町に集中していますが、外周部にも配置されています。
住居表示が桜町 鷹匠町とあっても実際は寺町と隣接していて 中津城下町の防御線になっていました。
お寺の裏側はおかこい山と呼ばれる土塁で、その外側に堀がありました。
下記地図の中央右側の付近になります。
普門院 宝蓮坊 巌松寺 東林寺 寿福寺 大法寺 本傳寺の名前が読めます。
おかこい山はごく一部分が残っていて文化財に指定されています。
(残存部分はBからEの間で、緑色に塗られている部分です)



普門院
中津市寺町978
寺町の一番南側にあります。
樹木が多くて本堂が良く見えません、父がよく相談に行っていました。
真言宗古儀派高野山金剛峰寺



浄土真宗 大谷派 宝蓮坊
中津市寺町980
我が家の菩提寺です。
下記は中津市の説明板の転載ですが、自分が幼児の頃には太子堂がありました。
前の御住職です、平成23年10月29日撮影。

 慶長5年(1600年) 細川忠興が中津城に入封の際、
行橋 浄喜寺の村上良慶を伴って、中津浄喜寺を開基させた。これが後 宝蓮坊と改称されたものである。
宝蓮坊は代々名僧が続き、第3代村上良道(この良道より村上家は代々中津藩の御典医を勤めた)は学問に秀で、勅命により聖徳太子の経典を進講し、
天皇より非常なお褒めの言葉を戴き、大阪四天王寺の奥の院に祭られていた太子の尊像を拝領した。
この尊像は室町時代初期の傑作と言われている。
良道は帰国後堂をたて、多くの信者に講義を続けたが、長年の風雨により堂は消滅し、尊像は現在本堂に安置され、楼門のみが当時の面影を残している。












浄土真宗 大谷派 安随寺
中津市寺町981
僧 安髄の開基で、安髄は長尾晴景に仕へ、天文6年景虎と戦い晴景敗死したのち 中津に来る。
弘治元年(1555年)、ここに安随寺を開く(下毛郡史)。



安随寺の裏側から松巌寺山門を見る。
左側は明蓮寺




松厳寺
萬年山 
臨済派妙心寺末

中津市寺町974

元禄の初年 奥平昌章が現宇都宮市で当寺をたて 実父 五島淡路守の位牌を収めた。
そこ後 奥平氏の転封に伴い移転、享保二年 中津に移転したもの。









手前の白壁は松巌寺、前方は合元寺。



浄土宗西山派 合元寺
中津市寺町973

 開基の空誉上人は天正15年(1587年)黒田孝高にしたがって姫路から。
空誉上人は宇都宮氏の庶子だっつたので、宇都宮鎮房を謀略結婚により、誘殺した時、従臣が城内を脱出、この寺を拠点に最後を遂げた。
以来 門前の白壁は塗り替えても、血の痕が絶えないので、ついに赤色に塗られた。
なお現在でも寺の柱に刀傷が残る。

中津市 寺町 赤壁 合元寺

中津市 寺町 赤壁 合元寺



中津市 寺町 赤壁 合元寺

浄土真宗 本願寺派 明蓮寺
大分県中津市桜町1060
応永三〇年(1423年)重松御刑部少輔義房入道了空が当時の中小路(現在の3ノ丁 西御門付近と想像される)に開く。
黒田家が中津に築城時 現在の桜町に替地をもらい移転。
中津城下町のお寺としては最大かも、大きな境内です。








後方に明蓮寺の本堂を望む、手前の駐車場は松巌寺となっています。




善教寺
中津市桜町
天正年間に開基、元明蓮寺の下寺だったが、明治維新後独立した。
明蓮寺の境内に隣接。




法華宗 本傳寺
中津市寺町970

康永2年で 最初は天台宗だったが慶長10年 本門法華宗に改めた。










大法寺
中津市寺町966







東林寺 (東林禅寺)
中津市鷹匠町911番地
医王山 臨済派妙心寺末
仁冶二年開基と言われ、中津最古の古刹。
承久元年(1219年)七堂伽藍の建立ありしも大友氏の兵火で鳥有に帰した(下毛郡史)。、

寺町付近のお寺はよく知っているつもりでしたが、このお寺は恥ずかしながら知りませんでした。
寿福寺横の路地を入った奥になり、道路を通っただけではわからないのです。
こんな位置に旧中津市内(厳密には旧中津町) 最古の寺院があるなど知りませんでした。
元々 中津付近の中心地は奈良 平安時代 下毛郡衙があったと思われる長者屋敷跡遺跡付近と思われるので、
そちらに奈良時代の寺跡があります。
海岸近くに多くの人が住むようになったは後世の事なのでしょう。

本堂裏は墓地になっています。












寿福寺
中津市鷹匠町908

大相撲の寺尾(錣山親方)の夫人の実家 日吉旅館の前に当たります。
右側の電柱のところから東林寺の参道になります。







円応寺
中津市寺町961



園龍寺
中津市寺町991
閻魔さまで有名です、幼児の頃 祖母に連れて行かれたことがあります。
怖かったですね。











寺町通り、福沢旧居方向を望む、前方の寺は浄安寺。



浄土宗 浄安寺

大分県中津市寺町995

小笠原家の菩提寺です、住職の奥様と娘さんが音楽家で「ふるた教室(0979-22-2753)」も開いています。
この浄安寺は、大涅槃図で有名です。
小笠原家から寄贈されたもので、中津藩絵師で豊前海北(かいほう)派の開祖、海北 友倩(ゆうぜい)の1690年の作品。

お寺のホームページ

お寺のホームページから
浄安寺は、小笠原長継の菩提を弔うため小笠原政直が建立、山号は正寿山、浄土宗の寺院でございます。
寛永17(1640)年、小笠原長次の祖父、小笠原貞慶の従弟、小笠原長継の菩提を弔うため、長男の小笠原政直が建立しました。
現在の本堂は文化8(1811)年、舟町の豪商井筒屋勘之助高道の寄進により、再建いたしました。
境内には富士紡績で活躍した和田豊治の墓、福沢諭吉が養子になったこともある叔父 中村術平の墓、
中津藩の祐筆で書家の磯田崇山、東郭の墓、書家の中村寿山の墓がございます。 

大分合同新聞の記事の転載(2011年9月20日)

中津市寺町の浄安寺の本尊(木造阿弥陀(あみだ)如来立像)が、平安時代後期の作だったことが、仏教美術が専門の渡辺文雄別府大教授の調査で分かった。中津小笠原藩の菩提(ぼだい)寺で、長年、小笠原家と寺の関わりを調べている古田住職は「知りたかったこと。大変有り難い」と話している。
 昨年、200年ぶりに本堂の宮殿を修復することになり、古田住職が渡辺教授に調査を依頼。
ことし4月、木像の材質や構造、作風などを調べた。
 渡辺教授によると、木像はヒノキの寄せ木造り。高さ76・2センチの小像だが、
全体から繊細で手慣れた彫技がうかがえ、彫眼やバランスの良い形勢、面相などから、
「鎌倉彫刻成立以前の和様による造形感覚が顕著。銘は無かったが、12世紀半ばから後半に、
京都辺りの正系仏師が手掛けたものと考えられる」という。
 同寺は1640年、小笠原政直が亡き長継(小笠原信貞の子)のために建立した。
このため「伝来は不明だが、木像の出来は素晴らしく、
小笠原氏がゆかりの仏像を中津入部(1632年)の際に持ち込んだものだと思う」と渡辺教授。
 古田住職は「小笠原氏の系図からも、当主本人や兄弟の出家が確認されている。
その際に造られ、伝わったものかもしれない。
調べてもらって良かった」と話していた。 






浄土真宗 本願寺派 西蓮寺

中津市寺町998




真宗大谷派 永照寺
大分県中津市北門通567

福沢旧居広場の前にあります、小さなお寺です。
元和元年 細川行宗の開基。

昭和20年代ここで珠算教室が開かれていました、
ここで中学生時代に学んだものです。
その後珠算教室は 寺町の  西蓮寺か浄安寺に移転しましたが・・。
どちらだったか記憶が定かではありませんが、
本堂への階段の高さから推定して 西蓮寺の可能性が高いです。
珠算は高校に入ると止めましたので、その後の消息は不明です。





安養寺
萱津町




観定寺
萱津町
大江八幡宮の前にあるお寺です。
江戸時代は 大江八幡宮の別当だったようです。




自性寺

新魚町

元もとは藩主家の菩提寺で 江戸時代 檀家は無かったと思われます。
明治になって 隣のお寺を壊して 墓地にしたと想像されます。
ちなみに黒瀬さん宅はこちらに墓地がありますが、江戸時代は安全寺にあったそうです。
安全寺には奥平家の墓所の他 大身格(家老級)の墓所が有ったようです。
明治になって お寺が立ち行くように 中津に残った家臣の墓所としたと思われます。












祥雲寺
自性寺の南隣にあったお寺 現在は廃寺。
昭和20年ころは和傘の干場だったようなので、早い時期に無くなったと思われる。

養寿寺

浦町
臨済宗
元々奥平家が山形にいたころ 藩主が殺害した山伏の供養のため建立したものとのこと。
転封に伴い中津に移転した。



東学院
江戸時代 京町にあったお寺、修験道のお寺。
明治になり、廃絶した。
境内に祭られていたのが小吉稲荷。



等学院 跡





龍松寺







吉祥寺
角木新町  真言宗仁和寺末 
元々は現在の市役所の場所にあったそうです。
現在住職はいないのかお寺の表札が出ていません。
門構えは立派なのに 人が住んでいる様子は有りませんでした。








安全寺
本堂は意外と小ぶりですが、大きなお寺です。
昭和50年頃 再建されたそうですが、厳密な日時は不明です。











願慶寺

浄土真宗本願寺派
一番橋を渡り、




光明院

金谷本町に平成の初めころまであったお寺。
また江戸時代は寺子屋としても使われたそうです。
現在は集会所になっている。
仏具類は中津歴史民俗資料館に保管されている。








長福寺



下記画像の右側部分が長福寺跡、現 裁判所。




 撮影場所を変えて 鳥居の前付近から。

現在の裁判所の場所にあったお寺、維新後廃絶。
現在の奥平神社と城井神社はこの境内にあったもの。
維新後 本丸上段に移転。


2011年11月3日
2011年12月15日:50 東林寺 寿福寺の画像を追加。
2012年6月12日:418 城下町内部の寺院を多数追加したので表題を「中津市寺町通り  お寺紹介」から変更しました。
2012年6月17日:428 黒瀬さん撮影の光明院などの写真を追加。
2013年8月18日:2,007 自性寺の記載事項を追加。



 2009年7月15日よりカウント