江戸時代 中津城下町は土塁と堀で囲まれた城郭都市だった。
小倉口 広津口(渡守口) 金谷口 島田口 蛎瀬口 大塚口があり、各入り口には番所を設け、番士2人 下士2人 鉄砲足軽2人の計6人で監視したそうです(中津市史による)。
土塁は「お囲い」「お囲い山」と呼ばれ、明治時代になって ほとんど破壊されましたが、現在でも遺構が残っています。
ご意見ご希望は城下町中津の掲示板にどうぞ
A 小倉口
B 広津口(渡守口)
C 金谷口
D 島田口
E 蛎瀬口
F 大塚口
なお竜王町との境の外堀には橋がかけられていて、
一番橋 二番橋 三番橋が存在した。
現在堀も狭くなり、特に三番橋付近の堀は埋め立てられて橋そのものは存在しない。
@ 一番橋
A 二番橋
B 三番橋
空色の部分は堀や川。
緑色に塗った部分がお囲い山の土塁と城壁の残存部分。
その外は堀があり、これが中津城の外堀になる。
日豊線の線路は地図左下お囲い山の出っ張った部分辺りに施設されたのではと想像しています。
複線になる前は狭いながら、外堀の部分が残っていました。
具体的には下記の中津町地図も参照ください。
城壁やお囲い山の内一部分 緑に塗った部分が現存部分です。
旅行者などよそ者は広津の渡しから外堀の外周の道(西堀端 東堀端)を回り、島田口から城下町へ入る事になっていたそうです。
それも用事が無ければ、許可されない。
(金谷口の前を通るが、ここからは入れなかった)
金谷口
この外郭 金谷には武家屋敷が沢山あったので、若しかしたら士族専用口??。
記録が無いので不明です。
江戸時代の中津城下町地図。
持ち主の中津市片端町 吉本さんの好意でここに掲載します。
デジカメでの撮影ですから多少歪んでいます、ご容赦。
現在残っているお囲い山付近の拡大写真は下記。
写真の表示に江戸前期となっていますが、
人名から1717年(奥平藩中津転封)以降のもののようです。
現在の中津市地図(城下町部分)
中津歴史民俗博物館発行の地図の一部を利用させていただきました。
中津市の公式ホームページに中津城下町 町名 木戸口説明が新しく掲載されています。
城下町の町名、木戸口の説明があります、ご覧ください。
中津市教育委員会発行のパンフレット(2011年11月23日配布)
空から見た中津城下町(平成17年12月3日撮影)
17年12月帰省時 全日空機から撮影。
金谷口の左側に「お囲い山」が見える。
左側 自性寺よりは壊されてテニスコートになっている。
中心部は中津市立南部小学校。
渡守口(広津口)と金谷口
江戸時代の上記地図の内、渡守口と金谷口付近の拡大です。
写真左上 渡守口(広津口)
写真右下 金谷口
外堀に面し お囲い山がある。
金谷口に黒瀬さんのご先祖の名前があるので、
表示は江戸初期となっているが実際は奥平藩時代のものと思われます。
黒瀬家の右側の赤い部分は六所宮(明治になって小倉口の義氏神社などと中津神社へ)
外堀に沿って道(西堀端)が見えるがこの部分の現在の写真もご覧ください。
この堀を大部分埋め立てて、日豊線の線路が施設された。
渡守口(広津口)と自性寺境内のお囲い山
日豊線の線路際から諸町の通りにかけて約200mほどにお囲い山が残っています。
平成23年11月に建てた説明板。
(黒瀬さんから)
諸町通り、城外から城下町内を見る方向。
写真右側は残っているお囲い山。
渡守口(広津口)はこの付近にあったと思われます。
お囲い山の内側。
渡守口(広津口)付近の看板。
写真右側が外堀跡になる。
livedoor地図による
お囲い山と日豊線 旧線路(鉄橋跡)。
旧線路は複線化時 使われなくなった。
線路は少し南側に(お囲い山から外堀側に)移動し、さらに拡幅されている。
この為線路の南側に残っていた外堀跡も埋め立てられたようだ。
同上 付近。
自性寺 お囲い山の外堀付近は埋め立てられて、小さな溝になっている。
広津の渡し付近から自性寺を見る。
広津の渡しと思われる付近。
自性寺境内のお囲い山は日豊線の線路と直角です。
戦時中 山国川鉄橋を守るために高射砲が据え付けられていました。
終戦特後上って見たことがあります。
写真後方に線路の架線を支える電柱が見える。
北側から南側を撮影
山国川側から見た自性寺付近のお囲い山(撮影時期は平成16年頃?)
小学生の頃登った記憶があるが、急峻ながけで樹木が鬱蒼としていたように思う。
登るのに苦労した記憶が鮮明にある。
手前の草地は昔の外堀の跡であり、当時はさらに低かった(現在埋め立てられた?)と思われます。
その為 子どもの目からすると壁のように見えたのでしょう。
自性寺境内、上記写真の反対側。
撮影時期の関係で樹木が伐採されている。
知られざる お囲い山
金谷口に残る お囲い山は、何故か中津市のホームページでも紹介されていません。
日豊線の線路に平行しているので、気がつきにくいのでしょう、初めての公開になると思います。
貴重な江戸時代の中津の面影を伝える文化財と思います。
なお平成22年 中津市の文化財調査がおわり、文化財の指定がされる予定とのことです(23年7月28日つけで指定された)。
金谷口に残るお囲い山(写真右側)
ガードは日豊線(左側が中津駅方向)。
大きな木は「たぶの木」だそうです。
高架になる前は江三竹町の踏切で地面と同じ高さにする必要上、
下り勾配で このガードはもう少し低かったです。
黒瀬家のお囲い山から日豊線の線路が見下ろせました。
現在はほぼ同じか線路の方が多少高いでしょう。
ガードの向こう側は金谷本町の通り。
金谷口の場所(livedoor地図)
たぶの木の根元のお囲い山。
日豊線の線路は大部分 外堀の敷地に施設されている事が判ります。
左側は日豊線の線路。
高架の線路とほぼ同じ高さです。
右側 奥に山国川の日豊線鉄橋が見える。
この部分黒瀬さんの自宅です。
江戸時代から庭として使われていたそうだ。
黒瀬さん宅のお囲い山頂上〔桜の根元}。
黒瀬さん宅の庭。
石組みなどは江戸時代からのものと考えられます。
桜が咲くと奇麗です、写真の後方は日豊線の線路。
脚立は夜桜見物の為の照明用です。
黒瀬さん宅の庭。
読売新聞 大分版 23年6月30日
読売新聞の記事です。
見事な桜でしたが、台風で右側部分が折れてしまったようです。
金谷口付近から見たお囲い山。
右側に見える木は上記 黒瀬家の桜。
お囲い山は右側です。
中津城の外堀を埋め立てて線路を施設した様子がわかります。
日豊線が高架になる前、この付近の線路は下り勾配で、お囲い山の方が少し高かったです。
鉄橋に近づくと。
さらに鉄橋に近づくと右手にテニスコートが見えてくる。
後方に見えるのは自性寺。
自性寺裏付近のお囲い山。
お墓の後方のお囲い山の反対側もご覧ください。
白い土地の部分は昔 和傘などが干してあつた 今はたんなる空き地で工事などの資材置き場。
上記と逆方向(山国川方向から中津駅方向を望む)。
この部分のお囲い山はここでJ R 線路と合流しており
自性寺のお囲い山まで続いています。
黒瀬 戦一さん撮影(2010年3月)
黒瀬 戦一さん撮影(2010年3月)
黒瀬 戦一さん撮影(2010年3月)
黒瀬 戦一さん撮影(2010年3月)
右側はテニスコート。
新しく見つかったお囲い山の残り、天理教大豊分教会の裏手になります。
(2011年6月17日 追記 黒瀬戦一さん撮影)
場所的には中津新魚町郵便局の線路側に相当します。
(新魚町郵便局の前が天理教大豊分教会 その裏)
左の建物は分教会、おそらく庭として使われていたものと思われます。
この建物は もともと宇佐屋の本宅だったそうです、
はだか随筆で有名な一橋大学の元教授 佐藤弘人さんの実家。
煉瓦は昔の線路との境界の為に築かれたものかもしれない。
この位置では敷設した当時、線路の方が低かった。
線路が高架になった現在では線路の方が高いが。
ついにお囲山が文化財に決定!
中津市のホームページからのコピーです。
http://www.city-nakatsu.jp/modules/news/article.php?storyid=5046
●トピックス : 【文化財】中津市指定文化財「中津城おかこい山」の追加指定が決定!
掲載日時 2011-8-2 9:55:56
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大正時代の中津城下町
大正10年発行の地図では自性寺と線路沿いに江三竹町までに土塁の痕跡が描かれています。
なお江三竹町は明治時代にお囲い山を壊し、外堀を埋めて新しく出来た町で、資本を出した豪商3人の名前から1文字ずつ取ってつけたそうです。
寺町沿いの外堀の西側(城下町側)にはお囲い山を壊した空き地が点在しています。
この時点では宝蓮坊下の道や、殿町からの延長線にある旧国道筋の道路がお囲い山を壊して出来ています。
また古魚町の1丁目に相当する部分の道路(現福沢通り)も出来ている。
江戸時代には古魚町一丁目の道路はほんの一部しか無く、現枝町の通りを迂回する形だった。
現日の出町商店街に通じる道路に「日の出橋」がかかっている、意外と町の名前の由来かも知れない。
日の出町商店街の駅付近は「大字島田字上小川」で「日の出町」そのものは地名としては無いと思われます。
また島田神社前の本町通も昔は旭橋通りと呼ばれたらしい、ちなみにこの橋は旧国道に架設されている。
現在はどちらの橋も存在すら判らなくなっている。
鷹匠町の土塁
金谷辺(下級武士組屋敷跡)の案内図。
線路に沿って外堀が描かれている。
現状は線路部分が拡幅され暗渠になっていると思われます。
地図は西が上に描かれているので、
対比しにくいが江戸時代の金谷口付近の地図も参照ください。
金谷口の場所(livedoor地図)
金谷口の日豊線線路。
山国川鉄橋方向を望む。
中津城の外堀を埋め立てて線路を施設した。
写真 奥の部分には複線になる前は堀が存在した。
手前の道路部分も堀を暗渠にして、多少拡幅された可能性がある。
写真左側は金谷武家屋敷跡になる。
道路は 江戸時代の旅人が通った西堀端の道。
この道は山国川まで直線道路ではありません、外堀に沿って作られているので、。
山国川に近い部分の西堀端の道は上記地図のように途中から少し左側(南側)にずれています。
黒瀬さんの思い出話 (子供の頃)西掘端町は川に泳ぎに行く道でよく以前の様子を記憶していますが 中津に(40年ぶりに)帰ってきて完全に様子が変わり、 埋め立てられて 片端町の様に掘りの上に家が建っていました。 金谷口から西堀端方面へ行く最初の細い堀は日豊線の線路になっていますがここは昔は巾の広い蓋の無い溝でした。 其処から先に行くと道はL字に曲がった所から堀が広くなつていますが この堀跡は全部畑でした。 平たい畑では無くて お囲い山に向かってゆるやかに下つており其処に溝があり、 お囲い山の上はすぐに線路でしたが山の斜面はかなり背の高い雑木の林でした。 |
お願い
この付近の昔の写真お持ちの方 是非提供してください(現物は不要です、複写させてください)。
この部分 建物部分も含め外堀跡です。
地図で南側に堀がはみ出した部分に相当します。
江戸時代より続く西堀端の道。
右側は中津城の外堀跡。
上の地図などで南側に外堀がはみ出している部分に相当します。
旅人はこの道を通り、島田口から城下町に入った。
写真の奥が山国川、手前が金谷口方向になります。
vv
西堀端側から東堀端側を見る。
写真左のガードは金谷口。
江戸時代の旅人はこの道を真っ直ぐに進み、現在の上博多町付近で左折、
島田口から中津城下町に入ったそうです。
なお城下への近道ですが、旅人はこの金谷口は利用できなかったようです。
金谷口の場所(livedoor地図)
中津城下町 小倉口と小倉橋
外堀は現在は狭くなり、小さ小倉橋が架かっている。
江戸時代はここが中津城下町の表玄関だった。
写真の向こう側が小犬丸渡しの位置になる。
延長線上に中津街道の写真の道がある。
但し 身分の高い武家しか通行できなかったようだ。
下級士族 領民は渡守口(広津口)を利用したらしい。
さらに旅人は島田口まで回らなければならなかった。
小倉口の場所(livedoor地図)
中津城下町 小犬丸渡し
小倉口の対岸 吉富町にある標識。
中津の入り口は小倉口とばかり思い込んでいたが、
どうもこの標識を見ると、藩主ほか身分の高い武家しかこの道は通れなかったらしい。
藩士でも身分により もう少し上流で渡し舟を使い、広津口を使ったようだ。
場所は正確には不明だが、日豊線の鉄橋の付近だったのではと想像している。
特によそ者はこの広津口からは入れず、金谷口の前の道路を迂回して、島田口から町に入る仕組みになっていたらしい。
ご存知の方教えてください。
他国者はお囲い山の外、外堀を迂回して島田口が入り口だったらしい。
小犬丸渡しから見た中津城
山国川岸(小犬丸)から中津城方面を望む。
写真左端に小祝橋があり その中間に中津城天守閣が小さく見えます。
福岡県吉富町の中津街道
中津街道を山国川岸から小倉方面を望む。
この場所から藩主などは船で渡舟、小倉口へ。
上記の標識はこの近くにある。
(livedoor地図)
広津の渡し
旅行者や庶民が利用した広津の渡しの位置は不明ですが、恐らく日豊線の鉄橋付近の下記写真の位置と思われます。
後方の山は中津のシンボル 八面山。
山国橋の下付近(福岡県側)から撮影。
左側が金谷の土手。
日豊線の線路際(下流側)に堤防に突き当たる道があります。
この道は江戸時代中津城下町に通じる広津側の船着場に通じる道ではと想像します。
この位置から渡し舟で対岸に向かったと思われます。
(平成18年7月撮影)
(livedoor地図)でたどれば昔の街道に出ます。
江戸時代(1802年頃)の筑紫紀行という菱屋平七という人が書いた旅行記には 「はち屋村 人家300軒、また1里にして沓川を徒歩にて渡る、十四五丁行けば、領地の境のしるしあり、 これより東を中津領、さい川を徒歩渡り三丁ほど行くと小犬丸村、 人家五六十軒あり、村を出はるれば中津川なり、川向かいに中津の城の南手の塀櫓見ゆ、 これより川筋を一丁ばかり上りて舟渡しあり、ここは奥平大膳太夫殿のお城下なり、入り口ごとに見付番所あり、旅人を入れず。 町屋の内、何某かたに用事ある由を断るものあれば、許しているのみなり。 城下の外に堀を掘りめぐらして、旅人往来の道あり、川を渡りてより三四丁の間、足軽屋敷の前を通りて、 城下の外町 島田にいたりて 萬屋小左衛門というに留まる。 ここ町屋四五十軒あり、宿屋というものなく、こよいの宿れる家は綿穀物などを商う家なり。 (以上は中津藩の歴史 下巻から抜粋) |
中津城 西門
(livedoor地図)
3の丸の石垣
南部小学校校庭からみた3の丸石垣の残存部分。
中津市のホームぺーじではこれもお囲い山として紹介している。
場所は上記の地図 3の丸の堀近くの黄色の印の部分。
昭和20年代後半まで、この延長線上に 南部の校庭に石垣が残っていた。
(下の写真参照)
この延長線上には大手門の石垣がある(やはり黄色で示す)。
3の丸石垣の残存部分。
道路との間が元の堀跡。
この町は写真の左側しか家屋が無かったので片端町と言う。
手前の自動車が駐車している部分も当然掘跡。
(livedoor地図)
上記写真の延長線上 東側に昭和20年代後半まで築山がありました。
左側の建物(平屋)は南部幼稚園です。
右側は1階が職員室 2階が講堂でした。
この正面に生田門がありました。
この写真は昭和16年撮影。
場所は現在南部小学校の校庭になっている。
上記の写真の堀跡もこの様な溝に変わっている。
家屋が建てられている部分が江戸時代の堀に相当。
中津市のホームページではお囲い山として紹介されているが、
本来は内堀?の石垣であり、外周の土塁とは異なる性格のものです。
2009年10月25日黒瀬さん撮影
伊與田の石碑
この土地はもともと伊與田家があった場所のようです。
昭和30年代 資生堂の社長を務めた伊與田 光男さんの実家。
(江戸時代には屋敷は諸町に有った)
元資生堂社長の伊與田 光男さんに関し、小野さんが記事を「タウンマガジンなかつ」に書かれているので紹介します。
中津城下町 外堀跡
旧国道(現中津吉富線 県道)大分銀行裏付近の外堀跡。
左側にお囲い山があったはず。
右側は昭和初期には蓮田だったそうです。
上記旧国道に架かっていた橋が旭橋。
現本町通は旭橋通りと呼ばれていた。
(livedoor地図)
宝蓮坊裏の墓地、この付近も江戸時代はお囲い山だったと思われます。
当然写真の橋も江戸時代は有りません。
宝蓮坊と普門院の境内を削るように明治になって道路が出来たのでしょう。
川は外堀跡。
城下町中心部の拡大写真。
片端町から魚の辻の通りは宝蓮坊で突き当たりになっている。
微かにお囲い山の印も見える。
南部小学校の位置は城の中。
京町と新博多町、古博多町の間に細い線が見えるが、
これは町界の区画(溝)を意味するらしい。
子供の頃は家が建て込んでいたので、気がつかなかったが、
現在家屋が間引かれて、状況が良くわかる。
江戸初期 城下町を作る時 計画的に町割りをした事を示す証と思われます。
枝町
福沢通り(古魚町1丁目)の東側の細い道、上の地図の上から下を見た方向に撮影。
前方に見えるのは旧寿屋(新博多町)その手前、写真の右側が福沢通り(古魚町1丁目)になります。
江戸時代は古魚町1丁目の道路(現 福沢通り)はありませんので、こちらがメインでした。
城下町のお囲い山に囲まれた最も外周の道になります。
平成18年7月撮影
(livedoor地図)
蛎瀬口 大塚口 一番橋 二番橋 三番橋もご覧ください。
参考資料
昭和40年発行の中津市史による、上記地図も中津市史記載地図に追記したもの。
現在の地図は中津歴史民俗資料館作成のものの1部をを利用し、追記しました。
中津藩の歴史(原田 種純著)
大部分の写真は黒瀬 戦一さん提供です。
江戸時代の地図は片端町吉本さん保管のもの。
「城下町中津」は黒瀬さんの協力を戴き内尾の責任で作成しています。
2006年1月2日
2006年1月5日
2006年1月6日
2006年1月7日
2006年1月10日
2006年1月23日
2006年1月27日
2006年1月28日
2006年2月3日
2006年8月16日
2009年7月15日:移転
2011年1月1日:リンク修正
2011年6月17日 天理教大豊教会裏のおかこい山を追加。
2011年7月1日:読売新聞の記事を追加。
2011年7月28日:588 鷹匠町の土塁と元佐藤家(宇佐屋)の庭の画像を追加。
2011年11月7日:
2011年11月25日:1,120 中津市教育委員会発行のパンフレット(2011年11月23日配布)の追加。
説明は 中津城攻略マップをご覧ください。
2012年2月28日:1,401 元資生堂社長の伊与田 光男さんの伝記を追加。
2009年7月14日よりカウント