中津市の町名のいわれ

1.二の丁
 中津城の本丸は丸山の地に黒田公によって設置されたもので、巽櫓、乾櫓に囲まれており、本丸内は上段と下段に分かれている。
 上段は藩主の御殿や大奥殿があり、下段は藩政の館や松の御殿、能舞台などがあった。
 また、二の丸は本丸の北側と東側に位置し、御花畑、蓮池、内馬場、観音堂、長福寺などがあった。
 明治3年(1870)の中津城廃城により、この本丸と「二の丸」が、一つになって「二の丁」と呼ばれるようになった。

2.三の丁
 細川公入府と同時に中津城の修築を始めるとともに、本丸の南側に、東は大手門から西は西御門までの土地を開いて三の丸を造った。
以後この三の丸は、城代家老や大身格の上級藩士の屋敷地となった。
明治3年(1870)の中津城廃城により「三の丸」が「三の丁」と呼ばれるようになった。

3.片端町
 中津城下町の武家屋敷町の1町である片端町は、中津城の南側の「中掘り」に面し、東は京町そして西は小倉口に接する、東西約四百米にわたる上級藩士の屋敷町で、
町の北側は「堀」で、上級藩士の屋敷は町の南側だけに並んでいたので、片側だけの町並の町で「片端町」となったと云われている。
なお、慶応年間に、この堀が埋められて現在の町並みになったが、町名はそのままに残っている。

4.殿町
 中津城下町の武家屋敷町の1町である殿町は、中津城の南面に位置し、北側は片端町、南側は諸町の間にあって、
東は新博多町、西は外馬場に接する東西約四百米にわたる上級藩士の屋敷町である。
中津城築城以前、この辺りは「中小路」と呼ばれたことから「中の町」とか、また「侍町」とか云われていたが「大身や供番格」の藩士が住んでいたことから、
自然に「殿町」と呼ばれるようになったと云われている。明治以降藩士の屋敷は商人の手に移り、かっては市街の中心地であった。

5.諸町
 中津城下町の町屋14町の内の1町である諸町は、中津城の南面に位置し、北側は殿町、南側は新魚町の間にあって、
東は上勢溜、西は広津口に接する、東西約四百米の職人の町。
この町の西側三分の一には藩士の屋敷があったが残りは色々な職業の職人が住んでいたので「諸町」の名があると云われている。
この町は昔から鍛冶屋が多く、明治初年頃は鉄工、染物、それに関連する職人が多かった。

6.新魚町
 中津城下町の町屋14町の内の1町である新魚町は、中津城の南面に位置し、北側は諸町、南側は外堀りとの中間にあって、
東は上勢溜、西は自性寺と接する東西約四百米の職人の町(但し町の西側には一部藩士の屋敷があった)。
この新魚町は東は島田口、南は金谷口、西は広津口の三ヶ所の木戸口を持つ町であり、中津城南側の防御の第一線の町と考えられる。
従って他藩者を困惑させる目的で町名が付されたのではないかと思われる。
即ち黒田時代から存在していた「魚町」の対照町名として「新魚町」が「町割り令」によって誕生したのではないかと思われる。

7.京町
 中津城下町の町屋14町の内の1町である京町は、中津城の東面に位置し、西側は中堀りと並び、
東側には新博多町、古博多町、米町と接して、北は姫路町、南は上勢溜に続く、南北約四百米の商人町(一部に藩士の屋敷があった)。
天正15年(1588)黒田入府の折「京町中ノ辻の町屋伊予屋弥右衛門方を本陣とし、同16年1月11日丸山城を着工する」とあるように町名は古くからあったようだ。
「町割り令」で城下町は整備されたが、その時に「ここは京都のように町の中心にしたい」という願いと、また「京都付近からの移住者を象徴して」「京町」と呼ばれるようになったと云われている。
奥平時代には銀札所、町会所、高札所などがあり、大手門に連なる町屋で最重要なところであった。現在の京町1丁目は幕末まで「職人町」と呼ばれていた。

8.姫路町
 中津城下町の町屋14町の内の1町である姫路町は、中津城の東面に位置し、西側は中掘りと並び、東側は米町と接して、
北は北門通り、南は京町に続く、南北約二百米の職人、商人の町。
天正15年(1588)黒田公中津入府の時、「播州より職人や商人が随従してできた町」で「姫路町」と呼ばれ、黒田時代は城下の町屋の中心であった。

9.新博多町
 中津城下町の町屋14町の内の1町である新博多町は、中津城の東面に位置し、西側は京町、東側は古魚町と一部外堀りとの間にあって、
北は古博多町、南は上勢溜に接する、南北約二百米の商人町。
細川時代の「町割り令」によって、博多町の上手にあった「十助堀」を埋め立てて造られた町で「博多町」に対して「新博多町」と呼ばれるようになったと云われている。

10.古博多町
 中津城下町の町屋14町の内の1町である古博多町は、中津城の東面に位置し、西側は京町、東側は古魚町との間にあって、
北は米町、南は新博多町に接する、南北約二百米の商人町。この町は黒田時代に博多の商人が移住し、
店を構えていたので「博多町」と呼ばれていたが、細川時代の「町割り令」で、この町の南側に町やが造られた。
新しい町の名は「新博多町」。従って「博多町」が「古博多町」と呼ばれるようになったと思われる。

11.櫻町
 中津城下町の町屋14町の内の1町である櫻町は、中津城の東面に位置し、西側に舟町、塩町と、東側の寺町の間にあって、明蓮寺より北へ約200米のびる商人の町。
寺町や特に明蓮寺の門前町の要素の強い桜町は、料理屋や茶屋があって「江戸の岡場所」の様相を呈していたのではないかと推測される。
「櫻町」と呼ばれているのはこのためと考えられる。
また、「櫻町」の北の端から新堀町までの約100米を「柳町」と呼んでいた時代があった。

12.鷹匠町
 中津城南北の外堀の郭内に東西に約300米にのびる中津藩下級藩士の組組織町。かつて、「下辺」と云われていた。
この辺りには、中津藩の職制から付けられた町名が多い。
「鷹匠町」も鷹狩りの「鷹匠」役の職名に由来していると思われる。他にこの鷹匠に関連のある町名で「餌指」「鷹部屋」がある。

13.仲間町
 中津城南東にあって、鷹匠町の北側で東西約200米の中津藩下級藩士の組屋敷町。
かつて「下辺」と云われていた。この辺りには中津藩の職制から付けられた町名が多い。「仲間町」中津藩の仲間役からの町名と思われる。

14.豊後町
 中津城下町の町屋14町の内の1町である豊後町は、中津城の東北に位置し、中津城東側の蛎瀬口から西へ約300米にわたってのびる職人や商人の町。
細川時代「豊後の大友義統が配流され家来が浪人となり、中津のこの地に集まって来たので豊後町」と呼ばれた。ことから、とも云われている。
以後、豊後町は新博多町、古博多町に次いで東の中心地となった。
 

中津市町名由来板 vol . 1
(写真をクリックすると現在の町の風景が見れます)

1.二の丁
 中津城の本丸は丸山の地に黒田公によって設置されたもので、巽櫓、乾櫓に囲まれており、本丸内は上段と下段に分かれている。
 上段は藩主の御殿や大奥殿があり、下段は藩政の館や松の御殿、能舞台などがあった。
 また、二の丸は本丸の北側と東側に位置し、御花畑、蓮池、内馬場、観音堂、長福寺などがあった。
 明治3年(1870)の中津城廃城により、この本丸と「二の丸」が、一つになって「二の丁」と呼ばれるようになった。

2.三の丁
 細川公入府と同時に中津城の修築を始めるとともに、本丸の南側に、東は大手門から西は西御門までの土地を開いて三の丸を造った。以後この三の丸は、城代家老や大身格の上級藩士の屋敷地となった。
 明治3年(1870)の中津城廃城により「三の丸」が「三の丁」と呼ばれるようになった。

3.片端町
 中津城下町の武家屋敷町の1町である片端町は、中津城の南側の「中掘り」に面し、東は京町そして西は小倉口に接する、東西約四百米にわたる上級藩士の屋敷町で、町の北側は「堀」で、上級藩士の屋敷は町の南側だけに並んでいたので、片側だけの町並の町で「片端町」となったと云われている。
 なお、慶応年間に、この堀が埋められて現在の町並みになったが、町名はそのままに残っている。

4.殿町
 中津城下町の武家屋敷町の1町である殿町は、中津城の南面に位置し、北側は片端町、南側は諸町の間にあって、東は新博多町、西は外馬場に接する東西約四百米にわたる上級藩士の屋敷町である。中津城築城以前、この辺りは「中小路」と呼ばれたことから「中の町」とか、また「侍町」とか云われていたが「大身や供番格」の藩士が住んでいたことから、自然に「殿町」と呼ばれるようになったと云われている。明治以降藩士の屋敷は商人の手に移り、かっては市街の中心地であった。

5.諸町
 中津城下町の町屋14町の内の1町である諸町は、中津城の南面に位置し、北側は殿町、南側は新魚町の間にあって、東は上勢溜、西は広津口に接する、東西約四百米の職人の町。この町の西側三分の一には藩士の屋敷があったが残りは色々な職業の職人が住んでいたので「諸町」の名があると云われている。この町は昔から鍛冶屋が多く、明治初年頃は鉄工、染物、それに関連する職人が多かった。

6.新魚町
 中津城下町の町屋14町の内の1町である新魚町は、中津城の南面に位置し、北側は諸町、南側は外堀りとの中間にあって、東は上勢溜、西は自性寺と接する東西約四百米の職人の町(但し町の西側には一部藩士の屋敷があった)。この新魚町は東は島田口、南は金谷口、西は広津口の三ヶ所の木戸口を持つ町であり、中津城南側の防御の第一線の町と考えられる。従って他藩者を困惑させる目的で町名が付されたのではないかと思われる。即ち黒田時代から存在していた「魚町」の対照町名として「新魚町」が「町割り令」によって誕生したのではないかと思われる。

7.京町
 中津城下町の町屋14町の内の1町である京町は、中津城の東面に位置し、西側は中堀りと並び、東側には新博多町、古博多町、米町と接して、北は姫路町、南は上勢溜に続く、南北約四百米の商人町(一部に藩士の屋敷があった)。
 天正15年(1588)黒田入府の折「京町中ノ辻の町屋伊予屋弥右衛門方を本陣とし、同16年1月11日丸山城を着工する」とあるように町名は古くからあったようだ。「町割り令」で城下町は整備されたが、その時に「ここは京都のように町の中心にしたい」という願いと、また「京都付近からの移住者を象徴して」「京町」と呼ばれるようになったと云われている。奥平時代には銀札所、町会所、高札所などがあり、大手門に連なる町屋で最重要なところであった。現在の京町1丁目は幕末まで「職人町」と呼ばれていた。

中津市町名由来板 vol . 2
(写真をクリックすると現在の町の風景が見れます)

8.姫路町
 中津城下町の町屋14町の内の1町である姫路町は、中津城の東面に位置し、西側は中掘りと並び、東側は米町と接して、北は北門通り、南は京町に続く、南北約二百米の職人、商人の町。天正15年(1588)黒田公中津入府の時、「播州より職人や商人が随従してできた町」で「姫路町」と呼ばれ、黒田時代は城下の町屋の中心であった。

9.新博多町
 中津城下町の町屋14町の内の1町である新博多町は、中津城の東面に位置し、西側は京町、東側は古魚町と一部外堀りとの間にあって、北は古博多町、南は上勢溜に接する、南北約二百米の商人町。細川時代の「町割り令」によって、博多町の上手にあった「十助堀」を埋め立てて造られた町で「博多町」に対して「新博多町」と呼ばれるようになったと云われている。

10.古博多町
 中津城下町の町屋14町の内の1町である古博多町は、中津城の東面に位置し、西側は京町、東側は古魚町との間にあって、北は米町、南は新博多町に接する、南北約二百米の商人町。この町は黒田時代に博多の商人が移住し、店を構えていたので「博多町」と呼ばれていたが、細川時代の「町割り令」で、この町の南側に町やが造られた。新しい町の名は「新博多町」。従って「博多町」が「古博多町」と呼ばれるようになったと思われる。

11.櫻町
 中津城下町の町屋14町の内の1町である櫻町は、中津城の東面に位置し、西側に舟町、塩町と、東側の寺町の間にあって、明蓮寺より北へ約200米のびる商人の町。寺町や特に明蓮寺の門前町の要素の強い桜町は、料理屋や茶屋があって「江戸の岡場所」の様相を呈していたのではないかと推測される。「櫻町」と呼ばれているのはこのためと考えられる。また、「櫻町」の北の端から新堀町までの約100米を「柳町」と呼んでいた時代があった。

12.鷹匠町
 中津城南北の外堀の郭内に東西に約300米にのびる中津藩下級藩士の組組織町。かつて、「下辺」と云われていた。この辺りには、中津藩の職制から付けられた町名が多い。「鷹匠町」も鷹狩りの「鷹匠」役の職名に由来していると思われる。他にこの鷹匠に関連のある町名で「餌指」「鷹部屋」がある。

13.仲間町
 中津城南東にあって、鷹匠町の北側で東西約200米の中津藩下級藩士の組屋敷町。かつて「下辺」と云われていた。この辺りには中津藩の職制から付けられた町名が多い。「仲間町」中津藩の仲間役からの町名と思われる。

14.豊後町
 中津城下町の町屋14町の内の1町である豊後町は、中津城の東北に位置し、中津城東側の蛎瀬口から西へ約300米にわたってのびる職人や商人の町。細川時代「豊後の大友義統が配流され家来が浪人となり、中津のこの地に集まって来たので豊後町」と呼ばれた。ことから、とも云われている。以後、豊後町は新博多町、古博多町に次いで東の中心地となった。

 
2009年7月15日 移転


 2009年7月15日よりカウント