中津市史によると 細川三斎公 豊前国主たる時、高300石を浄喜寺に寄付あり、寛永年中 小倉京町の末において、浄喜寺を建立あって良慶に賜る。 この時 今井村浄喜寺は看守を守らしめ、良慶小倉の浄喜寺に在住す。 その後三斎公中津に隠居したまうの時、浄喜寺の住職を嫡男の慶安に譲り、良慶は三斎公に属し、中津に往く、 ここにおいて慶長12年(1607年)一寺を建立しこれを宝蓮坊という。 (行橋 今井浄喜寺の由来記による) |
住職さんです。
平成23年10月29日撮影(父の一周忌で)
境内左側 には安随寺があります、浄土真宗大谷派。
弘冶元年(1555年)建立。
宝蓮坊本堂内
説明板の内容は
慶長5年(1600年) 細川忠興が中津城に入封の際、行橋 浄喜寺の村上良慶を伴って、中津浄喜寺を開基させた。 これが後 宝蓮坊と改称されたものである。 宝蓮坊は代々名僧が続き、第3代村上良道(この良道より村上家は代々中津藩の御典医を勤めた)は学問に秀で、勅命により聖徳太子の経典を進講し、 天皇より非常なお褒めの言葉を戴き、大阪四天王寺の奥の院に祭られていた太子の尊像を拝領した。 この尊像は室町時代初期の傑作と言われている。 良道は帰国後堂をたて、多くの信者に講義を続けたが、長年の風雨により堂は消滅し、尊像は現在本堂に安置され、楼門のみが当時の面影を残している。 |
管理人の注
@ここで書かれている御典医の村上家は現在も続いていて、江戸時代の住まいは村上医家資料館になっている。
自分が幼児から小学生まで随分お世話になりました、その後 新しく病院を建設し移転したので、建物は昔のままに保存されています。
A太子堂 昭和20年頃まで存在したと思います、子供の頃 壊れかけたお堂が参道の右側にありました。
これが該当するのかは不明です。
宝蓮坊裏の外堀跡(写真右側の家屋の部分も外堀跡です、昭和20年代に家が建てられました)。
中津の寺町は城下町の守りとして計画されていました。
したがってこの墓域は江戸時代お囲い山の1部があった可能性が高く、川は外堀の跡です。
江戸時代の地図を見ると この橋も道路もありません。
この川
は金谷の東側 大江八幡の裏を流れてきます。
2009とうろう祭の様子(黒瀬さん撮影)
黒瀬さんに説明板と鐘の写真を撮っていただきました。
2012年8月 黒瀬さん撮影
大分県立短期大学校(中津市)の作品
安随寺 宝蓮坊の境内に入ると、左手に安随寺があります。
このお寺は由緒あるお寺で、黒田家が中津に来る前 弘冶元年(1555年)建立。
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2005年7月26日
2005年9月2日
2005年9月5日
2006年2月13日
2009年7月15日:移転
2010年4月5日: 70 安隋寺を追加。
2012年8月20日:508
2009年7月15日よりカウント