中津城


2008年4月4日撮影。

中津城は1587年黒田孝高(如水)が豊前6郡の領主として入国。
最初は大塚山の砦を修築し、根拠地としましたが、1588年中津江太郎の居城であった丸山城をを補修して中津城の築城に取り掛かりました。
黒田如水縄張図(下の画像)には本丸 2の丸 3の丸の他に京町 博多町などの記載があります。
1600年に黒田藩が福岡に転封となり、細川忠興が入城します。
息子の忠利を中津城にいれ、1603年から1620年まで増改築を行います。
1615年の一国一城令で破却の危機になりますが、例外的に残ることになり、忠興が1620年から隠居城として利用します。
本丸 二の丸 三の丸 八門 二二の櫓が設けられ、ほぼ現在の形が整います。
1632年細川氏の熊本転封に伴い 小笠原長次が入り、城下町の整備を行います。
1717年 奥平昌成がいり、1871年(明治4年)の廃城まで居城としました。
上記にある京町 博多町は現在でもそのまま続いています。



黒田如水縄張図

画像は上が南で、下が北なので、現在の地図と逆方向になります。
地図を180度 回転させてご覧ください。
高瀬川(山国側)の右側が現在の福岡県、左側が大分県中津市になります。





詳細は中津市教育委員会発行の「中津城を知る」pdf版をご覧ください。
上記は中津市のホームページにあるものです。


「中津市の郷土史を語る会」が作成した絵図です。
現在の模擬天守は薬研堀(二ノ丸と書いてある文字の上)上に作られています。


この地図(中津市設置)の方位は右上が北です。


三ノ丁駐車場の隣が西側の堀、その下側が東側の堀です。
天守閣の下の堀は薬研掘。

2009年5月12日9:24 撮影
下の堀は薬研掘。



明治時代初期の中津城の櫓の写真

上記模擬天守がある位置にはもともとこのような櫓があったらしい。
最初 建物の場所は特定できなかったが、石垣の積み方からこの位置ではないかと思われます。
松の御殿と言う説もありますが、場所的に符号しないようです。


写真帳で見つけた中津城の写真です。
中津城は明治4年頃に壊されていますので、その当時の写真でしょう。
位置が不明でしたが、現在の天守閣の位置らしいと判明しました。
手前側の堀が埋め立てられているように見えたのですが、
現裁判所の敷地から写した下記の写真と同じところからのものではと想像されます。

最初 手前側の倒壊した見張り小屋が堀の中にあると思っていたが、
堀は現在まで埋め立てられていず、大きな疑問でした。
裁判所の敷地は道路より 1m位高いので、
この位置から撮影すると、見張り小屋が道路上にあったとしたら、現在の風景と符合します。
江戸時代は上記地図から厩があった場所らしいです。



向野先輩にここだと言われたので、現地をよく見てきました。
道路より 一段高い裁判所の敷地から撮影するとこうなります。
2010年4月3日撮影。


この写真は昭和37年ころの撮影です。
石垣の上にはお城の建物はありません。
奥平神社(当時は三所宮と呼ばれていたと思う)の境内です。
江戸時代は現在の裁判所の位置に鎮座していたもの。
明治になって中津神社 大神宮 城井神社 扇城神社 水天宮などと一緒に遷座したものと思われます。
昭和39年ころ 奥平家の子孫(実際は養子)と市民の浄財で模擬天守を作った。
模擬天守は奥平神社の土地部分に建設されているので、
城が売り出されたときに揉めに揉めた。


黒田に石垣と細川時代の石垣

右側は黒田時代の石垣です。
細川時代に左側に拡張したようです。
左側の延長上に模擬天守があります。

画面右側はや山国川の支流(中津川)です。



中津城発掘調査説明会
平成一六年に行われました、この時 帰省していて受講しました。
発掘の結果などについては中津市のホームページにPDFの詳細な説明書があります。



平成16年10月9日撮影。


平成16年10月9日撮影。


平成16年10月9日撮影。
当時の石割の仕組みと道具。

西側(蓬莱園側)の堀復元(この堀には正式な名称は無いようです。)



昭和37年撮影の堀跡。
左側は蓬莱観跡。

忠魂碑の近くに枝振りのよい松ノ木が見える。


工事開始前に黒瀬さんが撮影。
  

完成した様子、平成20年4月4日撮影。


反対側(汐湯側)から見た堀跡。
工事前の写真。


完成した様子、平成20年4月5日撮影。


城壁が堀側にせり出した部分から撮影。
工事前の写真。

昭和20年代末までは手前側は水が残っていた。
その後埋め立てたらしい。


平成14年7月28日撮影。



完成した様子、平成20年4月4日撮影。


平成17年1月28日撮影。
一旦 埋め戻したようです。

これは下の写真のように反対側の側壁を作成するためのようです。



平成17年2月19日撮影。
左側は明治15年に出来た「蓬莱観」の跡地。
この劇場は終戦直前に取り壊された。

写真先方奥は汐湯。
完成した様子、平成20年4月4日撮影。

東側(昭和20年代創立時の旧城南中学校舎跡、この堀には正式な名称は無いようです。)の堀復元



昭和28年頃の東側 城南中学の校舎があった。



左前方に小幡英之助の銅像が見える。
旧城南中学(創立時)の跡地。
左側に独立自尊の碑がある(写真には無い)。

大鳥居 前の道路から写す。


発掘調査中。


復元が進みつつある石垣。

平成17年2月19日撮影。


平成17年2月19日撮影。


平成17年12月17日撮影。


平成17年12月17日撮影。
平成17年12月24日撮影。



平成17年12月17日撮影。


平成17年12月24日撮影。

平成17年12月24日撮影。



平成17年12月17日撮影。
昭和20年頃には石垣がありました。
その後城南中学の校舎を建設するために破壊したと思われます。



平成17年12月17日撮影。
創立時の城南中学の校庭の相当します。



旧城南中学の跡地も堀に戻されている。
ほぼ旧校門の位置から撮影。


撮影場所を90度ほど角度を変えて。


2つ上の写真の反対側から撮影。



完成した様子、平成20年4月4日撮影。

平成21年9月撮影 黒瀬さんよりの写真です。

いつの間にか蓮が植えられています。






写真の奥は汐湯方向。
左は蓬莱園 右 中津城(公園地)。


写真は元 城南中学校庭跡。
左は中津城(公園地)。


写真手前は元 城南中学跡地、右は中津城(公園地)

その他の場所での工事中の様子



平成17年12月17日撮影。

三斎池の近く 独立自尊の碑前で井戸を掘っているそうです。
この池は1622年開通の中津御水道の終点です。
最近は水道水を使っているので、あるいは節水の為か?。

堀に入れる水の確保が目的かも。

中津城の堀復元工事完成間近
黒瀬さんから最新の写真を送っていただきましたので、掲載します。
2008年2月19日


小祝側から見た中津城と水門


水門(海水取入れ口)
ここから取り入れた水は薬研掘に入ります。



水門の城内側(海水取入れ口)
この水路の先が黒田の石垣の画像右側に続きます。

薬研掘 (本丸と2の丸間の堀)



薬研掘に海水が満ちている状態。


薬研掘の水位が下がっている状態。




この部分から暗渠で他の堀と結ぶらしい。


裁判所側の鳥居下を通って独立自尊の碑前の暗渠工事。




逆方向から見た写真。

2009年11月20日撮影
公衆便所を手前側に移転するようです。


大鳥居前で左折して(南側に)道路中央に暗渠を作っている。
おそらくここで左右の堀とつなぐことになるのでしょう。
(昭和25年頃は 写真右側の位置に城南中学の校門がありました。)


大手門石垣の修復


中津市立南部小学校 生田門
昭和35年撮影の三ノ丁。
左側は南部小学校、左に大手門の石垣がある。

中津城 大手門石垣
平成14年7月撮影の大手門石垣。
樹木が大きくなって、石垣がはみ出し、
危険と言う事でその後伐採されたようです。

livedoor地図

中津城 大手門石垣
石垣の上の桜は卒業記念樹だったそうです。



大手門跡と南部小学校。
平成16年5月撮影。


中津城 大手門石垣

中津城 大手門石垣
無残に伐採されています。
時期は不明ですが、平成16年の桜の開花後〜11月の間と思われます。



平成16年11月11日撮影。

中津城 大手門石垣平成17年一月には復元済。

大手門石垣の反対側。
昭和22年。
後方は中津警察署。


記念撮影した場所はこのようになっていました。
斜面に簡単に登れた記憶があるので、
校舎建設時石垣の厚さを薄くした可能性があります。


お囲い山


自性寺に残るお囲い山

江戸時代は中津城下町の周りに防御の為外郭に土塁をめぐらせてあった。
現在は自性寺の付近 日豊線線路際金谷口付近 片端町に一部が残存している。
金谷口付近から江三竹町 島田神社 寺町にかけて江戸時代はお囲い山が連続して存在したようだ。
江戸時代の城下地図を参照ください。


なお大正時代の中津町地図にはお囲い山の痕跡と思われるものが自性寺付近から江三竹町にかけて残っている。
城下町と島田(豊田町)との境のお囲い山は取り除かれている。



自性寺に残るお囲い山


自性寺に残るお囲い山


自性寺に残るお囲い山
平成22年3月30日〜4月3日に撮影


戦後長い間あった公衆便所が移転した。


戦後長い間あった公衆便所が移転した。
手前 左側の位置に。





公園地(中津城内)にあった忠魂碑も現在では、
旧中津北高の跡地の二の丸公園に移転している。




















日本の歯科医師の第1号と言われる小幡英之助の像がある部分も修復されています。



裁判所の庭にある桜です。



昭和38年1月撮影。
薬研掘の写真です。
右後方の中津北高の校舎は取り払われています。









旧 城南中学の校庭跡。
大鳥居の東側の堀。

なお 3ノ丁に昔住んでいたからの情報では南部小学校の校庭に昔残っていた小山(石垣)の延長が現サーパス中津(マンション)付近の敷地内にも昭和10年代には残っていたそうです。

城下町中津のゲストブックの書き込みより抜粋)
写真のサーパス中津城内側の各屋敷内後背地に連続した土陵があり、おそらく南部幼稚園内にあった小山(城壁跡)につながっていたのでしょう。

南部小学校の西側に昔 職業安定所があり、その裏付近に昭和20年代まで土塁が有ったのは記憶しています。
恐らくお城の西門付近から南部小学校の敷地まで連続して石垣(あるいは土塁)が有ったのでしょう。
現講堂の付近から直角にまがり、大手門石垣(上記写真参照)に続いていたはずです。

黒田時代中津城本丸内に寺院? 墨書のある石発見

http://mytown.asahi.com/oita/news.php?k_id=45000000602160003

http://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/oita/news/20060216ddlk44040561000c.html

http://www.oita-press.co.jp/read/read.cgi?2006=02=16=210864=chokan
↓に移転
http://kiji.i-bunbun.com/read/read.cgi?1140015600=210864=1

歴史民俗資料館

城内 公衆便所の移転

戦後 作られたl公衆便所の位置が50mくらい離れた位置に移転した。
元の場所は中津城の椎の木門の横に位置するので、問題があったのでしょう。
自分が幼児の頃(昭和20年以前)には元に位置には鳩小屋(電柱の上に小屋)があった気がする。




新しい公衆便所


古い公衆便所


黒瀬 戦一さんからの情報です(2010年3月19日)。
古い便所の除去が始まりました。


黒瀬 戦一さんからの情報です(2010年3月19日)。


黒瀬 戦一さんからの情報です(2010年3月19日)。
古い便所は綺麗になくなりました。


黒瀬 戦一さんからの情報です(2010年3月19日)。
新しい公衆便所です、大鳥居の隣にあります。


2010年6月26日黒瀬 戦一さんからの画像です。
大鳥居 東側の堀には蓮が繁殖しています(西側に堀も同様)。


2005年1月29日
2005年12月19日 12月17日撮影の写真は全て黒瀬 戦一さんの提供です(その他も黒瀬さんの写真が多い)。
2005年12月26日
2005年12月27日

2008年2月19日:1339 黒瀬さんから堀を暗渠で結ぶ工事の写真を送っていただきましたので掲載しました。
2008年4月13日:1427 写真を追加するなど、大幅に変更しました。
2009年4月14日: 引越し
2009年7月14日:修正
2009年10月19日:158 最近のお堀の様子を追加。
2010年2月22日:333 新しい公衆便所の写真を追加。
2010年6月28日:521 堀の様子(蓮の花が開花)
2011年10月18日:1,541 新しく画像などを追加し 全面的に更新しました、表題も変えました。

 2009年7月14日よりカウント
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